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1F・屋内プール-1
耳がじりじりする。脳裏に『宮殿』の設計図を投射する。
ここはリビングと繋がったキッチンの真下の部屋。
眼球が二ミリほど揺れると、ページがばらばらとめくれる。配管図によれば、この部屋の中は樹海のように数々のパイプが通っているらしい。それらは地下まで貫通している。
設計図を信じるなら、この部屋には歩き回れるような空洞はないようだ。
床の曼荼羅を見た。さっきまでとは、微妙に模様が違っていた。それは見る方向が変わったからだ。ずいぶん歩き回ったように思えたが、ほんの少ししか移動していないようだった。
笑いながら長い草刈り鎌を携えた女性の、その部分にしゃがみこんで触れると、わずかに部屋の一部が光り出す。壁の木板がせり上がり、黒い金属質の扉が現れた。
観音開きの扉で、真鍮のような取っ手に半透明なガラス製の錠が取りつけられている。前方後円墳型の鍵穴を覗きこむと、そこに穴やシリンダーは見えない。
これは見せかけであり、あからさまな像を伴って現れるのは、開くことが前提のつくりだからだ。開いてほしくない扉なら、鍵や閂なんて見せなければいい。鍵があるということは、それは閉じているということであり、閉じているなら開けることができる。開けられないものは閉じられない。
鍵穴の辺りを指で触れると、キャンディのように有機的な肌触りがした。ホロ・ウィンドウが開き、見たこともない暗号がスクロールしだす。キリル文字とハングルが数字で結びついた、言語としては成り立たない羅列。
「簡単だね」
左右の手をかざすと、光球が浮かび上がり、やがて円盤状のホロ・キーボードがあらわれる。スクロールし続ける暗号へ介入し、左手を捻って解読しながら右手で解答を打ち込んでいく。視線誘導コマンドを打ち込むと、画面に二つの赤い点が現れる。楔を打ち込んだようにウィンドウのスクロールが止まった。こうなれば後は簡単で―
こめかみを汗が伝う。この感覚―脳の血管に、新しい液体を流し込んで行くようなこの感覚。使っても、使っても、新しい領域をどんどん広げられる脳という無限の荒野を開拓していくようなこの感覚。たまらない―これだからやめられない。
最後のコマンドを打ち込むと、プレッツェルの折れるような音と共に錠が開いて床に落ち、こなごなになって消えた。身体いっぱいに麻薬が広がるような、爪の先から電気が走るようだ。いったい、アリスはどこに行ったのだろうか。
真鍮の扉を開くと、ほのかに滝の音が聞こえた。光が網膜に差し込んでくる。真っ白に塗りつぶされた視界に、少しずつ色が戻ってきた。肌に水飛沫がかかり、虹が見えた。壁一面にガラスが張られ、防水タイルの床と美しい透明度の水。背の高い植物。涼し気な空気の匂い。
「プールだ」
こんな部屋が用意されているとは、まるで本物の宮殿だ。しかし不気味に静まり返っていて、人の気配がない。時折、風でも地震でも、はたまた人の手によるものでもない不思議な力で、水がちゃぽちゃぽ揺れる。
私は壁のガラスに歩み寄った。まるで外の景色が見えるようだが―濁りガラスのように輪郭がぼやけている。手で触れてみると、わずかにノイズが走った。
これは立体投影だ。
しかし、手で水を触れてみると、冷たくて液体そのもの。水は本物で、それも汚染されたり薬物が混じったりしている水ではないようだ。
ここにもアリスはいない。目を閉じている間に突然消えてしまった。どうやって?
「先ずは、この部屋をどうにかしよう」
壁の隅、天井に設置された、ホログラムの投影装置。人差し指と小指を向け、親指で照準を定める。ちょっとでも私と同じような技術を持つ人間なら、誰でも知っているサインだ。脳内でぐるぐる化学反応が螺旋を巻き、螺旋はさらに複雑に絡み合って暗号を生成する。
発砲音もマズル・フラッシュもない仮想の銃身から放たれた見えない魔弾は、投影装置に着弾すると―これも私と同じような技術を持つものが、視覚とは違う感覚で感じるものに過ぎない―、ばちっと火花を散らして部屋全体の照明をダウンさせた。
窓は消え、その外の風景も掻き消えた。すると、それだけではなくプールの中の水も、一瞬で蒸発するように消えてしまった。寒々しい白色灯が、部屋の中を照らしている。
ホロ・ウィンドウがふいに私の前に広がった。どこからか、通信が繋がる。
『ソニア、聞こえる?』
「アリス? いま、どこにいるの?」
『分からない』
通信は繋がっている。発信元のデータを解読―この『宮殿』のドメインを経由していることが分かった。どうやら、アリスはこの建物の中にはいるようだ。
『ソニアったら。急にいなくなっちゃうんだもん』
「私が? 急にいなくなったって?」
『そうだよ―どこにいるの?』
通信は切らないままで、右手にホロ・キーボードを浮かべ、アリスの居所を探る。視界に飛び込んでくる基板型の光のライン―それらが訴えかけてくる情報は、彼女はどうやら一階にはいないということを示していた。あの曼荼羅の部屋から脱出したようだ。
「いま、一階の部屋にいる」
右手の指の関節が、ぽきっと鳴る。
「あの部屋から出たところ。プールがあるよ」
『プール?』
「あなたも知らないのね。アリスは? どこにいる? どんな部屋?」
『分からない―美術館みたいなところにいるの』
美術館?
「詳しく教えてもらえる?」
『赤い絨毯が、ずっと向こうまで伸びてるの。両脇の壁に、いくつも絵が飾ってあって―』
「ずっと向こうまで伸びている?」
つまり、そこは部屋というよりも、通路のような場所であるということだ。しかし『宮殿』に限ってそんな構造はあり得ないはずだ。この建物には廊下と呼べるものはないはずだから。
「アリス、そこから動かないで」
右手のホロ・キーボードを叩く手が止まる。
「そこは何階なの? あの部屋からどうやって、そこまで行ったの?」
ひた、ひた、ひた……
足音が聞こえて振り返る。さっき私が入ってきた扉から、二メートル三十センチはありそうな裸足の女が、こちらを濡れた瞳で見下ろしていた。その両手には、その上背よりずっと長い、金属質の草刈り鎌を持って佇んでいる。
『ソニア?』
人間じゃない、とひと目で分かった。ほとんど振り被ることなく鎌を薙ぎ払って、私の首を捉えてくる。
咄嗟に身をかがめて躱さなければ―たぶん電脳が回電死を起こしていた。女は勢いのままに腰を半回転させ、鋭い刃先が壁に突き刺さる。生々しい描写だが、私は騙されない。ここでだまされる人間は、電脳酔いしやすい。三半規管の四次元的躍動に、慣れていない人間だ。
壁に刃物が突き刺さっているのに、音がしない。明らかに不自然な現象なのに、視覚情報のショッキングさに紛れて、それを見落としがちだ。
女の頭部を目がけて右手を翳す。私の右手に、青白く光る幾何学模様が集まって絡まり合う。それは図式化されることで簡略かつ複雑に発展していく攻性暗号だ。
一秒とかからず構築を終え、視線コマンドで暗号を打ち込むと、女の眉間に染み込んだ暗号が一瞬遅れて爆ぜた。激しいノイズと嬌声を混じらせて、情報の破片と化して空間に霧散していく。
『ソニア! 返事をして。何があったの』
「襲われた」
『襲われた……ですって?』
「ただのホログラム。私なら暗号で倒せる」
扉から元の部屋を見返しても、何の変化もなかった。
「見た目はただの情報の塊だけど、打ち所が悪いと神経が焼ける」
『暗号なんて分からない』
「ひとまず、アリスはそこから動かないで。私がそっちに向かうから」
通信を長く続けていたから、アリスの居場所は割り出せた。脳内の設計図と重ね合わせると一目瞭然―視覚情報ではないから、使っているのは目じゃないけれど―、アリスからの通信は、三階の西端の部屋から発せられていた。
「とにかく、どうやってそこまで行ったのか教えて。そのルートを辿ってみるから」
返事はなかった。
「アリス?」
いつの間にか通信は切れている。『宮殿』内ドメインへアクセスを試みる。ノイズがひどく、情報はほとんど読み取れなかった。さっきまで、アリスの声は鮮明に聞こえていたし、こちらとの通信のタイムラグもなかった。
「面白いじゃない」
扉を閉めて、新たに鍵をかけなおした。銀色に輝く錠から、北極から切り出された氷のように鋭く、冷たい鍵が吐き出された。それをポケットに投げ入れて、それから草刈り鎌が突き刺さっていた壁を見た。何事もなかったかのように修復されているが、指先で突いてみるとホロ・ウィンドウが広がる。視覚情報プロパティによれば、このあたりの空間だけデータの破損の形跡がある。
十数枚のウィンドウを、自分を取り囲むように展開し、この部屋から外へつながるあらゆる情報をサーチする。空調、熱、電波、水道……どんなものでもいい。脳内で設計図がバラバラと激しい音を立ててめくれ上がり、一瞬ごとに更新されていく情報と逐一同期されていく。
これだよ、これ―! 思わず叫びたくなる程、脳の血管が沸騰するほど熱を上げ、身体じゅうが熱くなるのを感じる。情報の密度に押しつぶされそうになりながら、もがき、流れをかき分けていく。やがてひとつの解に辿り着いた。
水がすっかり抜けたプールに入り込むと、その排水溝へ近づく。金網の蓋を外し、奥にハンドルのようなものを見つける。取っ手を掴んで引き抜くと、中から黒い円柱状のデバイスがせり出てきた。青い回路が光を帯びて、強烈な冷気を放っている。
とん、と側面のスイッチを軽く叩く。表面に部首と部首を乱雑に配置した
「うそ漢字」が浮かび上がり、走り回っていた。漢字は嫌いだ―形が生き物のようで、まるで眼球の中を這い回る羽虫みたい。左手のホロ・キーボードでコマンドを打ち込んでみると、このデバイスを介して『宮殿』内部の配水ラインを把握できることが分かった。
地下階で激しく配水ラインが稼働している。ちょうどこの部屋の真下だ。設計図で記された配水ラインと、このデバイスから読み取れる配水ラインの配置は見事に一致する。私やアリスの他にも、この家には誰かがいるようだ。さっきの女のこともある。
すると、アリスが今まで気づいていなかっただけで、ここは様々な人間やプログラムが住み着く、複合住宅として設計されているのかもしれない。それなら、容易に部屋と部屋を移動できないのも分かる。
それでも疑問は出てくるが―例えば、なぜ廊下を作らないのか? 部屋と部屋を直接繋げるという構造は、複合住宅としては致命的だ。否、それが容認されるとして、それならエントランスが建物全体で一か所に集約されているのもおかしい。部屋ごとに外と繋がる扉を配置するべきだ。
急に耳の奥を轟音が貫いた。頭蓋骨の中で真鍮の笛が鳴り響くような―思わず一瞬だけ、視界がくらむ。その隙に私の身体を取り巻くように、いくつものホロ・ウィンドウが広がった。これは私の意志じゃない。
それぞれのウィンドウには、それぞれ違った「うそ漢字」が浮かび上がり、私の身体にノイズが走り始める。焼けついた鉄を、無理やり神経に押し付けられるような痛覚情報。あらかじめ仕込まれていた反射攻撃プログラムだ。
「うそ漢字」で組まれた暗号はアルゴリズムが複雑怪奇で、ひと目ではとうてい理解できそうになかった。こちらの身体へのアクセスを叩き落すだけで精いっぱいだ。前髪からバチッと火花が散る。それに気を取られた一瞬の間に、左腕に緑色のバグが這い回る。気持ち悪くて、思わず肺が縮み上がった。
「負けるもんか」
計算は得意なのだ。これくらいのことは、何十回何百回と経験している。視界が完全にブラックアウトしたことも、身体の右半分が吹き飛ばされたこともある。その度、あらゆる神経を動かして切り抜けてきた。
「来た――」
あの感覚だ。アルゴリズムを解読するのではなく、感覚で理解した。攻撃を受けて破損した身体を修復しながら、反射攻撃を受け止める。それらと同時に、ますます激しくなる攻撃からアルゴリズムを解読し、更に反撃する。
左腕のバグはすっかり消えてなくなり、逆にホロ・ウィンドウがバヒュ、と音を立てて爆ぜた。こちらの暗号が通り始めたのだ。こうなってしまえばこちらのもの。扱う武器が同じなら、扱いはこちらの方が上なのだ。
まるで花火大会のように「うそ漢字」がはじけ飛んでいくのは、なかなか爽快だった。全ての攻撃が止んだ時、一枚だけホロ・ウィンドウが残された。展開するとそこには何かのコマンドがしまってあった。また「うそ漢字」だったけれど、今は不思議と美しい形に見える―このコマンドは、一体何に使うのだろうか?
ひとまず右手に装填して、次の部屋へ向かう扉を探すことにした。
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