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1F・屋内プール-2
プールの中の水は確かに本物の質感があった。しかし、それは本物の水ではなく、投影機によって浮かび上がった量的立体映像。実際に中に沈んでも息が出来なくなるわけじゃない。それどころか、たった少しの浮力だって持ち合わせていない、水の質感を持った、限りなくリアルな水の映像。
つまりここは泳ぐためのプールとしての機能はない。立体映像でそれらしく見せている、ただプールのような部屋だ。
だとしたら、この場所の本当の利用目的は何か。一階の西端という立地―白い無機質な部屋の壁に手をつきながら、ぐるりと歩き回ってみる。プールを中心にして、白い壁に四方を囲まれただけ。白色灯と、それから床のタイル。非の打ち所がない行き止まりのように見えるけれど、それはあくまで物理法則の中での話。目に見える色が正しいとは限らない。触れた質感が本物とは限らない。
物質や現象に対して感覚を行使するとき、それもまたこちらに情報を行使している。いくらでもごまかせる。
たとえ現実で「球体である」としても、あらゆる感覚に対して「立方体である」という情報を打ち込むことが出来れば、それは立方体になる。
壁に囲まれているように感じられるのは、そういう情報を向こうが発しているから。恐らく、実態とは異なっている。嘘で塗り固められた情報を全て暴き出す。扉にかけた錠が、がちゃ、とわずかに鳴った。
足元から感じる、わずかな違和感で立ち止まる。ほうら――口元が緩みそうになる。いくら偽物の情報で塗り固めても、それを暴こうとする人間に対しては、どうやったってボロが出てくるもの。タイルが一枚、わずかに浮かんでいる。取り外すと、またあの円柱状のデバイスが地面からせり出てきた。「うそ漢字」が表面を走り出すが、すぐにバチッと火花が散って金属塊に変わった。
さっきの攻撃とアルゴリズムが同じで、攻撃パターンもほとんど同一。予防注射ワクチンみたいに、一度受けた攻撃を躱せないくらいじゃ、とても暗号屋なんて名乗れない。
デバイスにホロ・ウィンドウが浮かび上がる。表示されたプロンプトに、さっき取得したコマンドを打ち込むと、実に複雑な機構が作動して、デバイスが物理展開した。めまぐるしい回路音を立てて、なにかの演算を行っているようだ。白い壁に電子の亀裂が走って、情報が次々に更新されていく。古民家の外壁塗装がはがれていくように、壁が崩れて、ひとつ下の顔があらわになる。なるほど、と思った―銀色に光る壁。寒々しい白色灯は色合いだけではなく、実際に肌を刺す寒々しさを醸し出す冷却装置。黒いデバイスから、うっすらと白い煙をまとう。
ここは冷凍庫なのだ。低温にさらすことで、電脳機器の情報伝導率を効率化する保存庫。
氷というのは、電脳が発生したごく初期から防壁のメタファーとして使われ続けるモティーフだ。この部屋は生鮮情報の保存庫なのだ。
物理展開したデバイスは、いくつもの機械の翼を広げた、棒状の天使のような姿をしている。それぞれ指で触れると、床のタイルが展開し、ひとつひとつから同じ姿のデバイスがせり上がってくる。もう意識するまでもない、無意識下で論理結界に弾かれて勝手に制御下に入り込んでくる。それぞれのデバイスから、青白い煙がオーラのように纏開する。
なにが『宮殿』だ。これはさながら、電脳で支配された『城砦』のようなものだ。
【ソニア】
呼ぶ声は脳裏に直接。珍しいことじゃない。左手には情報を読み込むためのホロ・ウィンドウ。右手には暗号を装填し、すぐに動けるよう腰を少しだけ落とす。
「だれ」
【ソニア】
【分かっているだろう、ソニア。ぼくが一体なにものなのか】
「わからないな―もっと個性を出してくれないと―あなたみたいな人は何十人も見てきたからね」
じわり、じわりと。脳にきついゴムバンドを巻かれているような、微妙なしびれ。
【こんな場所できみと、また会えるなんてね。ソニア】
「私のファン?」
【アリスを探しているのだろう】
「あなたなら分かるんでしょう。教えてちょうだい―アリスはどこにいて、どうやったら彼女の元に行ける?」
【落ち着けよ。ぼくは複数疑問符を含んだ質問には、答えることはできない】
「じゃあ、あなたは誰?」
声が一瞬、たじろぐように黙り込んだ。肩をぐいっと引っ張られるように、身体が勝手に動いた。振り向きざまに右手の暗号を放つ―さっき分解したはずの女が、また一瞬で霧散するのが見えた。
「おどかそうったって、そうはいかない」
【クァーラト。覚えていないかな?】
声が優しく呼びかけた。クァーラト―聞き覚えのあるような、遠い響き。脳裏には寄せて返す潮騒のような、あたたかな風が響いていた。左手が痙攣するように、激しくキーボードを叩いていた。見ると、知らないうちに鴉の羽根のような黒いノイズが、指先から私の心臓を目がけてさかのぼってきていた。
【きみは覚えていないかもしれないね、ソニア】
右手にもキーボードを展開。左腕に侵入したバグにコマンドを打ち込み、押し返し始める。焼き切るような痛みとは違う―ほんとうに腕の中に生き物が入り込んでくるような、嫌な感じ。
【アリスはまだ無事だよ。無事でなければいけない】
「このッ、」
思わず声が漏れた。常にパターンが変化している――それも不規則に――アルゴリズムが読み取れない。一音ずつ発するたびに、扱う言語を変えているようなぐちゃぐちゃのコマンド。これでどうやって私の電脳を攻撃できる? ただ言葉を並べても暗号にはならない。意味のある暗号でなければ、電脳へ干渉は出来ないはずなのに。
【腕がなまったかい?】
声がくすくす笑った。それがたまらなく不快だった。
【ソニア。こうもたやすく侵入されるようじゃ、あの時と変わらな――】
ボン! と激しく爆ぜた。
目の前のデバイスの回路がスパークした。私の左腕も吹き飛び、数メートル後方に勢いよく吹き飛ぶ、やがて、銀色の壁に背中を打ち付け、身体じゅうが締めあげられるように空気が吐き出された。慌てて吸い込んだ空気は思ったよりも冷たくて、心臓がぎゅっとした。
両腕を見る―まだ、きちんとそこにある。瞬時に同期を終え、感覚を取り戻す。ホロ・ウィンドウが浮かび上がり、けたたましく身体の修復を始めた。
うなじの辺りに手をやると、頚椎の骨と骨の間から飛び出すように、U字型の黒い金具が飛び出ていた。遥か以前に仕込んでおいた安全装置だ。昔はネットに潜るたび仕込んでは使い捨てていたが、ある時から触れさせることもなかったこれを、だめにしやがった。
クァーラト。その名前には、いくら脳内記憶を検索しても、覚えがない。十数本せり上がった黒い円柱型デバイスはみな、一様に沈黙して光を失っていた。安全装置をその辺に放り捨てると同時に、身体修復が完了する。立ち上がると貧血のように、ぐらっと地面が揺れた。
「ここ、いったい何?」
プールの底には、それまでなかった蓋のようなものがあった。開くと、そこから真っ黒な地下階に向かって梯子が降りている。誘っているのだ―降りて来いということだろう。クァーラトが部屋の情報を書き換えたのだ。
一歩一歩を確かめるようにしながら、ゆっくり地下階へ降りていく。
はやくアリスと合流しなければ。
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