地下・保管室

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地下・保管室

 広大な空間が現れた。地下階というだけあって、ひんやりとした空気が流れている。オレンジ色の照明と、焦げ茶色の木の床板、アイボリーの壁紙。足元のワイン・レッドの絨毯に、ほんの少しだけ足が沈み込んでいく。相当広い部屋のようで、向こう側の壁がどこにあるのか、見通すことが出来ない。  両側の壁には博物館のようにガラスケースがいくつも並べられている。柔らかな感触に足を取られないように、少しずつ歩いていく。ガラスの表面は特殊な偏光テクスチャが貼りつけられているようで、中をうかがうことはできない。指先で軽く触れてみると、ぬるい薄氷を触っているような、鈍い感触が帰ってくる。  これも仮想物質だ。実際にはここに、恐らくガラスは張られていない。  そういう手触りの物質情報を構築し、私の指を通じて脳に送り込んでいるのだ。左手にホロ・キーボードを展開し、網膜に情報が雨のように流れる。右手の指先に青白い電子の光が集まり、淡く熱を帯びる。軽くガラスを叩くと、その場所からテクスチャがばらばらと錆びたメッキのようにはがれていく。 「アリス……?」  言葉を失った。  ガラスケースの中に入っていたのは、アリスの姿そのものだった。全身のありとあらゆる関節が外され、部品をつなぐ赤や緑のコード類がむき出しになっている。  人工皮膚(スキン)で隠されるべき義肢は金属で作られた部位が顕になっていて、とても人間のものとは思えない。顔はだらりと力なく垂れさがり、開かれた眼球には、光が灯っていない。  寒気がした。悪趣味にもほどがある―直視に堪えない。 【こたえてるじゃないか】  また、脳裏にあの声が響き渡った。クァーラト――さっきアクセスは弾いたはずなのに。 「これは、なに……?」 【アリスだよ】 「ふざけないで」  ばちん、と音を立てて天井の照明が爆ぜた。ガラスケースが粉々に砕け散り、ガイノイドの身体が耳障りな音を立てて床に転がり落ちた。 「きみがアリスの何を知ってるって言うのかな、ソニア」  声は背後から聞こえた。  振り返ると、そこにはアリスが立っていた。黒い髪、濡れた瞳、白い肌。どれもアリスのそれだった。さっきまで見ていたアリスとは違って、黒い軍服を身に着けている。それはアリスの声と全く同じ音色で、さっき見たアリスと同じ笑顔だ。 「気味の悪そうな顔をするなよ。ずいぶん器用になったね、ソニア」  私が目線を鋭く向けると、バチン、とアリスの脳が内側から爆ぜた。身体中の関節から火花と共に煙が吹き出し、ガラガラと音を立てながら崩れ落ちた。 「非道いことをするなよ」  また、同じ声が背後から聞こえてきた。右手に組み込んだ暗号を再装填(リロード)し、再度向けなおす。そこにはピンク色のドレスに身を包んだアリスの姿があった。それに向けた私の右手が、ボン! と紫色の煙を上げて爆ぜた。ホロ・ウィンドウが数十枚となく重なって浮かび上がる。 【BURST】 【BURST】 【BURST】 「ソニア。ぼくはきみを、どうこうしようってわけじゃないんだ」  クァーラトはけたけた笑った。右腕の破損は重篤で、私の組み上げたコードでは修復できそうにない―どうやったらこんな風に電脳体を傷つけられる? 「だったら、これはなに?」 「取引をしよう」  唐突な言葉だった。 「ぼくは今、きみの身体を傷つけた。その気になれば、今すぐ脳を吹っ飛ばすことだってできるんだ――おどしじゃないんだぜ。きみの右手に打ち込んだ暗号は、きみにとっては未知のアルゴリズムで記述されている。解読は不可能だろう。徐々にきみの電脳体を侵食し、三十分もすれば身体がフリーズする」 「それで?」 「その傷をぼくが直す。その代わり、ぼくをここから出すために力を貸してほしいんだ」  面食らった。クァーラトは音もなく歩み寄ってきて、ノイズだらけの私の右手を、ほっそりした左手でとる。 「辟易しているんだ。この『宮殿(パレス)』での生活に」 「あなた、ここに住んでいるの?」 「そうともいうし、そうじゃないかもしれない。ぼくは、幽閉されている」 「幽閉?」 「ソニア。きみがあちこちの部屋を開錠し、機構を作動させたことで、『宮殿(パレス)』内部のシステムに乱れが生じた。ぼくはその隙に逃げ出した。そして、きみの電脳を経由して、この身体に入り込んで活動することが出来ている」  クァーラトの瞳が、ぱちぱちと、水面のように明滅した。見る見るうちに右腕のノイズが掻き消えていき、元の細い手首が顕になっていく。どっと溜息が出た。クァーラトは真っ直ぐに私の目を覗きこんでいた。 「分かった。協力する」  私だって、この部屋から次の部屋へ行かないとならないのは同じだった。目的は一致している―目の前でアリスの顔が、笑顔を貼りつけていた、 「話が早くて助かるよ、ソニア」 「まずは、何をすればいいの?」 「きみにはこの部屋はどんなふうに見えている?」 「私の視界くらい、いつでも覗きこめるくせに」 「ぼくはきみに敬意を払っているんだよ、ソニア」  クァーラトは慇懃無礼に、スカートの裾を軽く持ち上げて会釈してみせた。その動作が妙になめらかで、手慣れていたので、何かを言い返す気力もなくなってしまった。 「どこまでも、ずっと向こうまで続いているように見える。ワイン・レッドの絨毯。壁紙はアイボリー」 「概ね間違っていない。だが、どこまでも続く部屋なんていうのはあり得ないよね?」  うなずく。クァーラトは軽やかな足取りで数歩、先に進み出ると、指先で何もない空間に、羽のように触れた。そこから雫を落としたように、赤いノイズが広がる。壁に、天井に、床に―私の足の下を駆け抜けていった。  やがて、部屋全体がざっと荒いノイズに包まれたかと思うと、次の瞬間には部屋の様相は大きく変わっていた。そこは無機質な白い壁、白い床、白い天井に囲まれた、無菌室のような―部屋の中央には、空っぽの手術台が置かれている。部屋の両脇には、規則正しく並べられたガラスケース。中にはそれぞれ全く同じ姿かたち、アリスの顔をした義体が整列していた。所々が空席になっているのは、私が壊したいくつかのものと、今目の前にいるクァーラトの分だろうか。 「どうして、アリスの身体がこんなに?」 「アリスは固有の身体を持たないからさ」  何もかも知った風にいうので、それがまるで出鱈目のように聞こえて頭に血が上った。 「いくつも予備がある。きみがいくつか、既に壊した。ぼくはそのうちのひとつをこのとおり、拝借しているというわけ」 「あなたは、何者なの?」 「今はぼくのことより、もっと聞かないといけないことがあるんじゃないかな?」  クァーラトはガラスケースの扉をひとつ軽々と開くと、中からアリスの形をした義体を抱え上げ手術台に乗せた。天井からヘッド・マウント式のデバイスが降りてきて、顔をすっぽりと覆い隠す。指先でスイッチを押し込むと、たちまち青緑の光が漏れ出し、耳障りなモーター音を立てた。 「ソニア。アリスと仲良くやっている様じゃないか」  脳裏に、本物のアリスの笑顔がよぎった。ほっそりした指と、瞳の色。 「きみはきみが思ってるより、ずっと大きな存在なんだぜ、ソニア」  クァーラトは私をあざけるように言った。 「きみはアリスのことを何も知らない。アリスの身体が義体だということも、ついさっき知ったという風じゃないかな?」 「仮想空間では、義体も生身も関係はないもの。その差別観、古いわよ」 「もしかしたら、ぼくはきみの言うところの、本当のアリスかもしれないぜ」  悪い冗談だ。手術台の上のアリスの義体が、がたがたと震える。周囲に紫や赤のホロ・ディスプレイが展開され、緑色に滲んだ奇妙なコードを吐き出す。毒々しいアルゴリズムだ。 「アリスは娼婦なんだ」  クァーラトは笑顔を崩さない。 「きみと出会う前からずっと、何百人もの男に抱かれてきた。そのためだけに肉体を捨て、性用人形(セクサロイド)に無理やり電脳を収められた。義体と違って、性用人形(セクサロイド)は相手を傷つけないように、出力や駆動系に慎重な動作が要求される。万が一にも妊娠することはないけど、それに似た感覚を脳に送り込むために不要なデータを装填(インストール)される」  ホロ・ウィンドウに書かれているアルゴリズムは、一般的なものだった。すぐに解読する。疑似生理周期の管理、性感帯の制御、人工子宮の細かな駆動系……吐き気がした。 「どうしてアリスはこんなことを!」 「それは、ぼくのあずかり知らぬところだ。ともかく、性用人形(セクサロイド)は損傷しやすい。だからこうして何百体も予備を用意して、傷ついたら逐次交換する必要がある。ぼくのように暗号を使えるなら、こうした不要なコードをクラッキングして、機能を停止させることはいくらでも出来るがね。アリスにはそうした知識がないだろう?」  通信コマンドを開いて、アリスを呼び出した。しかし、応答がない。何度『呼び出し』コマンドを打ち込んでも、帰ってくるのは冷たい待機音声だけだった。 「アリスがどこにいるか、分かるんでしょう。あなたが何者か分からないけれど、それくらい出来るでしょ」 「『アリス』なら、ここにいくらでもいる」  喉の奥から、吐瀉のように叫び声が漏れた。クァーラトの身体が真っ赤な火花と共に吹き飛び、手と足が千切れ、その首がぎょろっと私の足元に転がった。彼が身にまとっていたドレスは、人工血液で真っ赤に染まり、白い壁もガラスケースにも、視覚情報のバグのように赤い斑点が転がった。 【非道いじゃないか、ソニア】 「あなたのことがひとつわかった。絶対、あなたの話を聞いたりしない」  視界にざざっと、濃紺の砂嵐が走った。 【忘れるなよ、ソニア】 【ぼくはきみに対して優位性を確保している。今すぐ回電死(コイリング)させてやってもいいんだぜ】 「そんなの知らない」  ふと見ると、部屋の端には黒いスライド式の扉が忽然と現れていた。非常灯めいた緑色のランプが灯り、私を誘っているようだった。砂嵐がますます強くなり、肌がぴりぴりと焼けるような感触を持つ。  両手の人差し指をこめかみに当てる。思わず目を閉じる――耳をハンマーで思い切り殴られたような音がした。目の前が激しく明滅する――自分の脳に暗号を打ち込む羽目になるとは思わなかった。両手を膝につき、どっと息が漏れた。徐々に視界に光が戻る。砂嵐は消え、何の声も聞こえなかった。  ふらつく足で黒い扉を開き、その先の部屋に入る。振り返ることなく思い切り閉じた。ホロ・キーボードを開いて扉にコードを打ち込むと、金属音と共に青白く光る十字型の封印が数十個となく扉に突き刺さり、二度と開かないように厳重な鍵をかけた。
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