3F・画廊-1

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3F・画廊-1

「ソニア!」  赤い絨毯がどこまでも伸びていく。両方の壁に触れられるほど狭い幅の壁。優しく、しかし限りなく純度の高い白い照明。壁には等間隔に、木で作られた額が並んでいた。そこには、地域も、作者も、年代もバラバラの絵が、乱雑に置かれているところだった。  叫んだ声が反響してきたところで、我に返った。私はいま、どうしてソニアの名前を読んだのだろう?  ついさっき通信が途切れた。アリスはここにじっとしていろ、と言った。  なにか、嫌な予感がする。  単なる予感。だけど、確かな予感だ。私はソニアみたいに頭がいいわけじゃないけど、これだけは自信がある。ぼんやりと、なにも思い浮かばない脳の中に、突然、はっきり浮かび上がる原色的な思考。それはすぐに周囲の思考に負けて希釈されてしまうけれど、無意識のうちに私が練り上げた答えなのだ。  へたり込んでいたところから、立ち上がる。この先の見えない、美術館の回廊のような部屋。曲がり角もなく、ただ、どこまでも真っ直ぐに伸びている―ありえなかった。けれど私は歩き出した。とにかく、先に進まないと、きっと始まらないのだ。      〇 『メランコリアⅠ』。デューラーの銅版画。絵を集めるのは、確か母さんの趣味だったような気がする。  私の父さんはとても母性的な人で、逆に母さんはとても父性の強い人だった。家事や料理をするのはいつも父さんだった。母さんは何か、必死に仕事をして世界中を飛び回りながら暮らしていた。私はいつも父さんと家で一緒にいた。たまに家に帰ってくる母さんは、父さんと、それから私に必ずキスをして、行った先々で買って来たお土産を私に渡してくれた。そして、一緒にご飯を食べて、お喋りをして、それからすぐに次の仕事に出ていく……  この絵は小さいころに一目見て、とても嫌いになった絵だった。今でも、背中が少しだけぞくぞくする。はっきり線が書かれているようで、実は曖昧に、境界線が揺蕩っているように書かれていた。それがたまらなく、気味悪かった。今まで赤だと信じていたものを、青だと言われた時のような。大好物だったチキン・ナゲットが、何気なく見ていた鶏を解体したものだと気付いた時のように。 『メランコリアⅠ』には、天使と魔方陣が描かれている。それだけじゃない、天秤や砂時計、幾何学図形、いろいろなものが……  この魔方陣は成立していない。ひと目で分かった。思わず手で触れると、スクリーンがかかるように、ぶん、とホロ・ウィンドウが広がった。  四×四マスで、「1」から「16」までの数字がめちゃくちゃに配列されている。指先の震えを抑えながら軽くホロ・ウィンドウに触れると、数字はばっと砕け散って魔方陣が空欄になった。手元に残されたのは「F」と書かれたカードキーのようなものだけ。硬質なプラスチックで作られた、半透明の正方形。うっすら緑色に透けて、ちょっぴりきれいだった。  十六進数だ。私にはよくわからない――ごく普通の家庭で育った私は特別な電脳スキルも持っていない十進法の奴隷だ。それでも、やらなければならない。『メランコリアⅠ』の天使は魔方陣を失って、心なしか不安げな思案の表情を浮かべていた。  こんな時、ソニアならどうする?  私が真っ先に考えたのは、それだった。ソニアと出会ってから、いろいろな電脳のトラブルの相談を彼女に持ちかけてきた。彼女はやれやれ、またですか、みたいな顔をしながらも、いつも引き受けて魔法のように解決してくれた。それを、私はいつも横から見ているだけだったけど、横からずっと見ていたのだ。  私の手に残されたカードキー。「F」と書かれたこれを頼りに、恐らく、もう一度魔方陣を完成させるのだ。残った十五枚を見つけないといけない。カードキーをポケットに入れて、私はもう一度歩き出した。一歩踏み出したとたん、さっきまでと、全身を走る感覚がぜんぜん違うことに気が付いた。  前に進んでいる。  そんな気持ち。  すると、それまでいくら歩いても見えてこなかったはずの曲がり角が現れた。おかしい、と振り返る。この通路はどこまでもまっすぐ伸びていて、遠くまで見通せるほど長く、明るい。曲がり角があったら、気付くはずなのに。  丁字路の中心で立ち止まる。右にも左にも、似たような景色が広がっていた。そう言えば……思い出す。迷路に迷い込んだ時、どっちかの手を壁についていけば、いつか必ず出口に出られるのだ。右手を壁に着くと、さらさらした白く、粉っぽい手触りが返ってきた。そのまま真っ直ぐ進んでいく。  ソニアはいつも、こんな風なことをしているのだろうか。気が遠くなりそうだった。ふと、一枚の絵が目に留まった。  作者不詳、題不詳、年代不詳。黒と緑がのたくった、日本の汚れた海みたいな色のぐるぐるした絵だった。見たことの無い絵だった。  触れてみる。なんの抵抗もなく、私の右手首から先が、額をくぐって絵の中に入り込んだ。思わず喉から声が漏れる。慌てて引っ込めると、右手の先には黒くて小さな文字化けが、ざらざらと走り回っていた。 「これは……このノイズは……」  仮想空間に没入しているとき、通信が不安定になったり、過負荷がかかったりすることによって生じるノイズだ。ポケットの中が淡く、光を放っている。「F」のカードキーをかざすと、ますます強く光を放った。うっすらと、半透明のプレートの中に、ガラスについたひっかき傷のような、無数の回路のようなものが見えた。  行くしかないのだろうか。少し恐ろしいけれど、私は絵の中に両手を差し込み、それから頭を突っ込んだ。額に両手をつき、身体を引っ張り上げて足を額の中に突っ込む。額に腰かけるように、そっと足を床についた。  そこはさっきまでと似たような空間だった。どこまでも伸びる通路、両手を伸ばせば両側の壁に触れられるほど細く、狭い。  ただ、どこまでも伸びる絨毯は青く、ふちどりは金色の刺繍だった。この模様には見覚えがあった。ここに迷い込む前に見た、あの曼荼羅(マンダラ)の模様にそっくりだった。私の入ってきた絵を見ると、さっきのものと同じ絵が飾られている。しかし、どこか赤みを帯びていて、受ける印象が違っていた。 「なにが、どうなっているの……?」  いまさら、そんなことを呟いても仕方がない。私は歩き始めた。相変わらず、等間隔で絵が飾られている。さっき見たような気がするものもあるし、本当に、生まれて初めて見るような絵もあった。ひとつ、ひとつ、懐かしかったり、気味悪かったり、あるいは何も感じられなかったり、そういう絵ばかりが飾られていた。  母さんの顔が脳裏によぎった。優しい笑顔と、家を出る時の勇ましい横顔と。また曲がり角が見えてきた。また丁字路だった。右に曲がると、少し向こう側に行き止まりが見えた。 「出口だ」  少し駆け出すと、真鍮の鎖でふさがれた黒檀の扉が、重々しく鎮座していた。扉の横には監視カメラが二台、こちらをじっと睨みつけている。取っ手の辺りに取り付けられた機械は、ちょうど、私の持っているカードキーを挿入できそうな穴が開いている。  試しに「F」を突っ込んでみる。かちゃり、と、軽い磁石がくっつくような音がした。しかし、あと五つも穴が開いている。あと五枚のカードキーを探さなければならない、ということだろうか。 「まだ、魔方陣も完成していないし……カードキーを集めないといけないし……」 【苦戦しているね。アリス】  懐かしい声が聞こえて振り返った。誰もいない―けれど、まだ気配を感じる。 【さすが、勘が鋭いね――アリス】 「だ、誰……」 【ついておいで】  声は消えた。誰も見えないし、足音も聞こえない。けれど、そこに誰かがいる―私に語り掛ける、声が。私の足は自然と動き出していた。通路の向こう側に向かって、一歩を踏み出した。
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