2F・エントランス-脱出

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2F・エントランス-脱出

「これから、どうしようかな」  エントランスホールの扉を押し開き、階段を下り、石畳を歩いて、金属の門が近付いてくる。私は誰にともなく、呟いた。  クァーラトはなにも答えてくれない。もしかしたら、とっくにどこかのネットへ遊びに行っているのかもしれなかった。私はもう一度、『宮殿(パレス)』の方を振り返った。  ガラスのように透き通り、氷のように冷徹に、そして飴のようにてらてらと、やわらかくそこに佇む大理石で囲まれた城。アリスを封じ込め、クァーラトを封印し、ソニアが迷い込んだ場所。  現在時刻を確認。これから二十二時間四十九分後、『宮殿(パレス)』はすべての機能を停止する。地下のアリスの義体に命令(コマンド)を残してきた。  今ごろ彼女は、地下に残されたすべての義体(じぶん)を打ち壊し、ガラスケースを叩き割り、部屋と部屋とを繋ぐ扉をひとつ残らず粉々にしているところだろう。その後、『宮殿(パレス)』のドメインと直結して、私によって与えられた暗号を行使してあらゆるデータを焼失させ、最終的には自壊する。あの真っ白な城塞は完全に打ち捨てられた廃墟となり、内部にはどんな情報も残らない。  私の電脳には、『宮殿(パレス)』内部のデータと、保管されていた資料が全て保存されている。明日の今ごろには、あの『宮殿(パレス)』のことを知るのは、世界中で私ひとりだけになる。 「クァーラト」  私は彼を呼んだ。 「クァーラト。戻っておいで」  彼は私に、何も言わなかった。やはり彼は勝手に私の制御下を離れ、どこかの国の静止衛星のネットに侵入していたようだ。面白い情報がたくさんあると言いながら、また彼は笑いながら、どこかへ飛び去って行った。  空を見上げる。雲は白く、吹き抜けていく風は暖かい。ただ感じるままに世界を知覚することができた。そこには、余計な誤読(ノイズ)妨害(エラー)は存在しない。ただ、そこにあるだけの世界。  でも、この風は少しだけ、赤みがかって見えた。 「なんでだろう……?」 「それは、あなたが肉体を喪失したからよ、ソニア」  振り返った。そこには、アリスの形をした何かが、うすらぼんやりと佇んでいた。 「私は、ソニアじゃない。アリス」 「意地を張らなくてもいい。あなたはソニアで、私はアリス。既にお互いの電脳体は融合し、ひとつの義体に同居している。記憶も混じり合って、ネットが接続を始めている。けれど、その一点だけは変わらない。あなたはソニア。そして、私はあなた。けれど、私はソニアじゃない」 「草の匂いがする――」 「ね。懐かしい感触。私が覚醒したときには、既に失われていたモノ」  そうだ。  私にはもう、血の通った肉体が無い。この義体は、私が物理現実で活動するための方舟にすぎないのだ。アリスはくすっと微笑んだ。 「ありがとう。私を、解放してくれて」 「解放?」 「もう疲れたの。作り物の身体でも、肉体でも関係ない、女であることに、疲れた。ありもしない苦しみと、訪れない痛み。それでも心のどこかで空虚を抱えていた。自分の身体が作り物だということに、だから男に抱かれていたの。そうすることで、自分が人間であるような気がしていたから。でも、そんなことはなかった。どんどん実感が薄くなっていくばかりで――」 「もう、いいのよ。アリス」 「なにもなかった。それが一番つらかった。なにもないことをつらいと感じることも、私には忘れられていた。だから、こうしてソニアに寄り添うことができるいまは、それだけで充足を感じるの。あなたとぴったり重なり合って、同一のネットを持つことが」 「……、でも、この義体(わたし)はアリス・アドミラル。それは変わらないことよ。ソニア・シャオリンという人間は、最初からこの世に存在しなかったのだから」 「うん……」 「だから、あなたが私をソニアと呼ぶときは……その時はまた、ソニア・シャオリンになってあげる。今は、アリスとして生きていくの。ようやく、あるべき存在として確立できたのだから」  遠くで、鳥の鳴く声が聞こえる。  もうアリスの姿は消えていた。  私は黒い門を押し開けて、元々歩いてきたような、歩いたことのあるような道を歩き始めた。これからどうしようか、まずどこへ行こうか……  アリス(ソニア)は私の中からぽっかりと穴を空けて消えた。右手にかすかに残った熱と感触だけが、記録(ログ)に残らない、魂の記憶として残っている。 「私はアリス」  そして、あなたがソニア。  二度と忘れない。
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