腐男子、カノジョの幽霊に会う

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腐男子、カノジョの幽霊に会う

 日曜の昼食後にはどこか安穏な空気が流れる。天気が良い暖かな日であれば、なおのことだ。一橋詩帆(ひとつばし・しほ)がおれの家を訪れたのは、彼女が火葬されてからぴったり一週間後の、そんな昼下がりだった。 「トワちん、リーマンもののボーイズラブが好きなわけ?」  想像してほしい。おれはひとり、個室の床に寝転がり、ヘッドホンで読書にあうイージーリスニング系の、適当なプレイリストを聴きながら、タブレット画面を凝視していた。リーマンもののボーイズラブ漫画を読んでいたのだ。そのヘッドホンの内側から「ボーイズラブが好きなのか?」と、女の声が聞こえたのである。  おれは思わずタブレットの画面を切り替え、再生している音楽プレイヤーを確認した。「木漏れ日のたわむれ」というタイトルが表示されていた。ピアノやハープの、いかにも害のない旋律が流れていた。「リーマン」や「ボーイズラブ」なんてワードの入る前衛さが入る余地など、その曲には微塵もなかった。  首を傾げたが、聞き間違いか幻聴か、なんかそんなものだと結論づけようとした。気づかないうちに、だけど相当疲れていたんだ。だって、ほんの十日前に、同い年の女の子が死んだばかりだったから。その子は、友達の恋人だった。「苗字が音羽(おとわ)だから、トワちんね!」とおれを呼んだ。可愛くて、みんなに好かれていた。おれの友達も、彼女が大好きだった。そしてボーイズラブからは、おおよそかけ離れた子だった。  しかし、アバンギャルドはおれを逃してはくれなかった。 「未羽マリリン先生のリーマンもの、いいよねぇ。アタシも好きなんだぁ。なんだぁ、トワちんも好きなんだ!」  聞き間違いではない。美しい音楽を遠景へ変えるように、左のヘッドホンの内側から、確かに、はっきりと、明確に、女の声がした。  おれは視線をタブレット画面から、自分の左側へと向けた。そこには壁しかないはずだ。けれど、視界に飛び込んできたのは壁じゃなかった。  十日前に死んだはずの、一橋詩帆が、満面の笑みで目と鼻の先にいた。 「ウゲェェェェエ???!!??!」  おれは思わず後ろへ飛び退き、ヘッドホンを外し、詩帆に向けて投げ捨てた。ついでにタブレットも放り投げた。 「え、ひどくない?」  詩帆は平然としている。ヘッドホンもタブレットも、見慣れた制服をまとう彼女の体をすり抜けたからだ。 「は? え? 意味わかんない……いや、ひどいもクソもなくね?!」 「会って突然モノ投げてくるのはひどいっしょ」 「だってお前……は? なにこれドッキリ?」  言い終わるや否や、締め切っていたおれの部屋の引き戸が勢いよく開かれた。 「ちょっと、瞬(しゅん)。うるさいわよ。なんなの?」  言いにきたのは、おれの母親だった。 「や、だって」  おれは説明しようにもできないもどかしさに喘ぎながら、詩帆を指差した。だか、母さんは怪訝な表情を深めるだけだった。 「動画でも見て興奮したの? ひとりではしゃがないで。びっくりするでしょ」  おれは、自分の人差し指の先端を見つめた。そこには確かに、詩帆がいる。 「母さん、ここ、これ」 「これとはひどいなー」  腕をぶんぶん振りながら、おれは母さんに尋ねた。 「なによ、タブレットがどうかしたの? 安くないんだから、大事に使いなさいよね、まったく」  ぶつぶつと言いながら、母さんはおれに背をむけ、引き戸をぴっちりと閉じた。  詩帆の顔と、その足もとのタブレットを何度も見比べた。 「どういうこと……」 「トワちんにしか見えてないみたいね、アタシってば」 「的確なお答え」 「アタシ、死んじゃったんだよね」 「言うんだ」 「そんな気してたからなあ」  詩帆はしみじみとうなずき、床に腰をおろした。おれはどうしていいか決めかね、壁や天井に視線を彷徨わせた。 「まあ、トワちん座んなよ」  正座をした詩帆が、おれを手招きする。呼ばれるまま、彼女の正面におれも正座した。晴れた日なのに、むき出しの床はひんやりと冷たかった。 「あのね、そんでね」  ごくり、と唾を飲み込む。喉仏が大きく動いたのがわかった。詩帆が続けるであろう言葉に、おれは注意を傾ける。 「トワちん、リーマンもののボーイズラブ、好きなんだよね?!」  ずずい、と詩帆がこちらに身を乗り出す。鼻息荒く……って、多分もう息はしていないんだろうけど、鼻の穴がすこし広がっていた。 「そっち?」 「なんかあんの? ほかに」 「こうなってる経緯」 「あ、あー。ハイハイ、アタシが死んでからってこと?」  死、という言葉を詩帆はあまりに躊躇いなく使う。  おれは目の前にいる彼女を測りかねていた。オバケとか、幽霊とか、そんなものを、おれは信じない。では、こいつは何か。おそらく幻覚だ。おれにしか見えない、おれが作り出したまぼろし。最近ツイッターで迷信と脳科学を紐付けるツイートがバズっていた気もする。もっとも現実的で科学的で、論理的な答えだ。  一方で、幻覚で片付けることのできないざりざりとした違和感が、口の中や鼻の奥、あるいは脊椎のあたりを支配していた。おれが作ったにしては、詩帆はあまりにも詩帆であり、あまりにも詩帆からかけ離れていた。彼女の「死」を口にできないおれが作りだしたはずの詩帆は、なぜかボーイズラブの話をしている。 「アタシもよくわかんないけどさ。とりあえずテキトーに、トワちんたちと別れてから後のこと話すね!」  詩帆はこちらの混乱などお構いなしで、快活に自分の気持ちをそのまま口にする。この子は、いつでもこうだった。 「そうして」 「それからボーイズラブの話、しようね!」  詩帆はニッコニコで、いっそうこちらへ身を乗り出してきた。 「なんで……」 「だってー! トワちんがボーイズラブ愛好家なら、お話ししたいじゃん! てか、なんで言ってくれなかったの?」 「詩帆だって言わなかったじゃん」 「今言ったもんね! 好きな作家とか作品とか教えてよ! アタシも教えるからあ!」 「わかった、わかったよ」  勢いよく捲し立てる彼女を制するため、手を肩に置こうとする。けれどおれの手のひらは、手応えもなく空(くう)を切った。  おれと詩帆は高校一年の頃、同じクラスだった。席が近かったとか、よく話したとかいうわけじゃない。詩帆は人の輪の中心にいるような女の子だったけど、おれは輪から弾き出されても気付かれないくらいの立ち位置だ。接点がなかった。  けれど、同じ学校で隣のクラスだったおれの幼なじみーー颯太郎(そうたろう)が、詩帆に惚れた。颯に頭を下げられたのが、去年の初夏のことだ。おまえのクラスの詩帆ちゃんと仲良くなりたい、あわよくば告りたい、でも突然ふたりきりじゃ気まずい、頼む協力してくれと。  そりゃそうだろうなと思った。詩帆はおれから見ても可愛らしい顔立ちをしていたし、なによりいつも笑顔で、明るくて、たまに視線が合うだけのおれにさえ優しかった。同じように誰とも仲良くなれる颯が、彼女を好きになって当然だ。この上もなくお似合いだと、素直に思った。  校区は違うが最寄駅から家までの方向が三人同じだったこともあり、一緒に帰るようになった。もともと颯とはいっしょに帰っていたから、そこに詩帆が加わったのだ。放課後、ふたりは運動部でそれぞれに部活をし、おれは図書室で時間を潰して、同じ電車に揺られ、家路を歩きながらどうでもいいことを話す。家族とか、友達とか、ふたりにはたくさん話すことがあって、おれはただ、一緒に笑っていればよかった。  颯と詩帆が付き合いはじめたのは秋の真ん中の頃だ。「今日、一緒に帰れないや」と、颯が言った。図書室に、ひどく赤い夕日が差し込んでいた。「そっか」と、おれは言った。予感していたその日が、今日なのだと直感した。 「ごめん、瞬」 「謝んなよ。頑張れ」 「おう」  颯はぎこちなく笑っていた。おれはどんな顔だったんだろう。颯のまわりに舞うホコリが、夕日に照らされてやたらキラキラしていた。  その日、ひとりで歩く夕暮れの街は心細かった。颯は不安そうにしていたけど、きっとふたりはうまくいく。おれは、明日からはずっとこうなのだろうか。冷たさを帯びた秋風が頬を引っ叩くみたいに吹いてきて、おれは考えるのをやめた。  おれの予感そのままにふたりは付き合うことになった。だけど帰り道は、今まで通り三人のままでいた。そうして冬を超えて春がすぎて、夏の気配がまた近づきはじめた。じゃあまた明日ねと、詩帆とおれたちは行き止まりの丁字路で手を振りあう。詩帆と最後に話したあの日も、そうだった。 「でね! わー!!ってなって、うっそー??! と思って、バーンってなったらふっとなって、気づいたらふっとなったのと同じとこに立ってたわけ! そんで、自分ちに帰ろうかなーと思ったけど、そっちに全然すすめないの! ゲームの初代バイオハザードとか、3Dマップの勧めないとこは、ばいんばいん弾かれるじゃん? あんな感じ!」 「バイオハザードやったことあんの?」 「YouTubeで見た」 「エアプ」 「許せ。そんで、進める方向がひとつしかなくて、しゃーなしでそっちに向かって歩きはじめたのね。だけど、どうやら周りのひとにはアタシが見えてないみたいだし、声かけても反応ないし、よくよく思いかえしたら交差点に今までなかった花とかお菓子あったし、あらこれアタシったら、どうも死んだんじゃない? つまり今アタシ幽霊なわけ? えーサイアク。どうせなら異世界転生したかったと思いながら、進める道を進んでここまできたわけよ。そしたら、トワちんがタブレットでマリリン先生のリーマンボーイズラブ漫画を読んでたの。えーそれアタシも読んでたやつだし、ウェブ配信の最新話じゃん!? てゆかトワちんじゃん!!? ウッソマジー?? 反応ないだろうけどとりま声かけてみよー、って感じ。そんな感じ」 「さっぱりわからん」  おれはうなだれ、眉間を親指で解した。メガネのフレームに、少し指紋がついてしまった。 「だよねー! てかさ、アタシほんとに死んだの?」 「あー……」  うん、と肯定できずに、言葉を濁す。詩帆はおれの様子を見て、微笑んだ。 「わかった。トワちん、優しいね」 「優しくないよ」 「お父さんとお母さん、大丈夫かな」  なにも答えられないまま、おれは葬式で気丈に振る舞っていた、詩帆の両親を思い出す。「ソウタも」  詩帆はいつも、颯をソウタ、と呼んだ。 「……学校には来てる。ドブ川みたいな目をしてるけど」 「そう……」  言って、詩帆は俯いた。 「詩帆」 「道を歩いてる時ね、ソウタの家に行くのかな、って思ってたんだ。家の前まで行ったけど、入れなくて」  そう、とおれは言った。詩帆は颯の家を知っていた。そのことに傷つく自分が意外だった。いつも詩帆とは途中で別れ、颯は家までをおれと帰っていたからかもしれない。帰り道以外の時間を、ふたりは一緒に過ごしていた。恋人同士なんだから、当たり前だ。けれどおれは、どうしようもなく、あの夕暮れの帰り道の心細さを思い出した。  詩帆を伺いみれば、彼女もまた、深刻な表情をしていた。 「詩帆」  おれはもういちど、彼女の名を呼んだ。 「ソウタ、トワちんと一緒に帰ってる?」  おれは首を横にちいさく振った。 「どーせあいつのことだから、変な責任感じてんでしょ」 「さあね。かもしれない」  詩帆はそれきりなにも言わなくなって、おれもなにを言うべきかわからなかった。  気まずい沈黙が、初夏の日差しを鋭いものに変えていた。  破る口火を切ったのは、詩帆の方だった。 「はー……トワちん! マリリン先生の最新話見せて」 「え」 「敦と葉介がくっつきそうなところで、海外支社の葉介の元カレ出てきて終わってたよね? もーつづき気になっててさあ!」  熱心な読者じゃないかと思いつつ、おれはいちど投げ捨てたタブレットを拾い上げた。起動 させると、おれが読んでいた未羽マリリン先生の「ワールドワイドオフィスラブ(略称ワルオ)」、中盤ページが表示された。  詩帆はおれの隣へまわり込み「うわ、ネタバレ注意! 最初から、最初から!」と囃し立てている。 「ちょっと待って」 「んもー、早く早く」  す、と詩帆の手が画面に向かって伸びる。その指がタブレットに触れることは、おそらくない。おれが詩帆に触れられなかったみたいに。けれどおれの操作とは別に、画面は「ワルオ」最新話の冒頭ページへ移動した。 「ん?」 「お?」  ふたりが呟いたのは、ほとんど同時だった。 「ほー、なるほど。ははあ」  詩帆は勝手に納得し、画面は漫画の1ページ目と2ページ目を行ったりきたりしている。おれはタブレットの画面にはいっさい触れていない。 「さわれないけど、動かせるんだねえ」 「そうなの」  おれは横向き、詩帆の表情を伺った。 「そうみたい。えい」  詩帆もこちらを向いて、おれの鼻に指を近づけた。 「ふぎ」  鼻のてっぺんを、指ではない何かに圧される感覚があった。 「おー! なんだろ、念動力的なもの? こりゃ、異世界転生に匹敵するね!」  しないと思う、と口に出さずに心の中で呟いた。詩帆の表情に深刻さはもうかけらもなく、ひたすら楽しそうに笑っていた。  それから、詩帆は目を輝かせながら、「ワルオ」を読みはじめた。  今、目の前にいる詩帆がなんなのか、おれは答えを出せなくなっていた。幻覚、なのだろう。だけど、もしかしたら幽霊なのかもしれない。ま、どっちでもいいか、と言う気分になっていた。幻覚なら医者に、幽霊なら寺や神社に行く。ただ、それだけの違いだ。すくなくとも、敦と葉介の恋愛模様に「尊いー!!!」と叫び悶え転がる彼女が、悪いものだとは思えなかったから。
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