腐男子、励まされる

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腐男子、励まされる

 中学二年生の頃だ。クラスの女子数名がグループをなし、「ねーこれやばいよ」とクスクス笑いあいながら、「なにか」の貸し借りをしていた。「なにか」がなにもわからぬまま、おれは「今日もやっているな」と思っていた。ちょうど隣の座席だった女の子がそのグループの一員だったのだ。それは、ユニクロやしまむらの袋なんかで丁重に包装されていた。たまに袋から取り出されると、形状から文庫本であることはわかった。近所の書店名入りのブックカバーがかけられて、どんな本かはわからない。なんだか、違法な品をやりとりしているようでもあった。  正体を知ったのは、中二で最後の席替え直前だ。「良かったよー」とか「おすすめ」とか、いつものやりとりをしながら、隣の席の女の子が、しまむらの袋から中身を取り出した。いつも遮られていた文庫本の表紙が、はっきりと見えた。少女漫画風のポップなカラーイラストで、タイトルは「オレとアイツのラブラブ生徒会」。ん? と、おれは目を凝らした。描かれているのが、抱きしめあうふたりの少年だったからだ。  やば、と言って、隣の席の女の子はすぐにそれを袋にしまった。  それきり見えなくなってしまったものに、おれは強く惹かれた。あれ、男同士だったよな? 席替えのくじを引く間も、何度かその言葉を胸中で繰り返した。男同士だった、男同士だった、と重ねるたび、鼓動が早まった。高揚感で、耳がじんわりと熱かった。帰りのホームルームまでぼんやりとしていたおれに、「どうした」と、同じクラスの颯が肩を叩いた。「なんでもない」と言ったけど、なんでもないわけがなかった。  颯と帰宅する間も、気がはやって仕方がなかった。家についてすぐにカバンを放り投げ、制服のまま近所の書店へーーいつもあの子たちの文庫本にかかっていたブックカバーの、あの書店へと急いだ。  店内をくまなく見渡した。ない、ない、どこにあるんだろう。頬の熱さと裏腹に、背中が冷えていく思いがした。それは、いつもおれが無関心に通り過ぎていた少女向け小説の棚にあった。  棚の一画、新刊、と控えめながら正面をむいてディスプレイされた、ポップなイラストの「オレとアイツのラブラブ生徒会」。作者は、梶戸ゆゆ湯。あたりを窺ってから、イラストをまじまじと眺めた。やっぱり、描かれているのは男同士だ。帯には「万能クール×天然わんこ系。同級生同士のあまずっぱい青春デイズ!」とある。さっぱり意味がわからなかったが、通じるひとにはこれで通じるのだろう。また周囲を確認してから腕をのばし、一冊を手にとった。  あとのことは、あまり覚えていない。レジが若い女性で、どうしようと思ったが、彼女が業務とそれに付随する笑顔に徹してくれて救われた思いがしたこと、買った文庫本を一晩で後書きまで読み尽くしたこと、そして自分が読んだのはやっぱり男同士の恋愛物語だったと、奇妙な安堵感に包まれたこと。そんなことを断片的に覚えている。作者の梶戸ゆゆ湯が後書きで「商業ボーイズラブでは3作目になります」と書いていて、おれが読み終えた物語を「ボーイズラブ」と呼ぶのだと知った。  男が男に恋をして、報われて終わる物語が、この世にあるのだ。少なくとも、書店のあの本棚にぎっしり詰まっていただけと、梶戸ゆゆ湯が書いたあと二冊の分は、この世界に確実に存在するのだ。  カーテンを開けっぱなしにしていた窓の外で、冬の夜明けがはじまりかけていた。泣きたかった。叫び出したかった。  おれは、颯が好きだった。 「そんで、パソコンで『ボーイズラブ』って、検索したら、小説も、ま、漫画も、いっぱいでてくるの。ひん……しかも、全編無料で、読めるやつうううう、うえ……。二年くらい読み、読み、読み専だったけどぉ、でも、ちょっと、なんか違うって、思って、えっ、えっ、えっ」 「はああ、それで自分で自分の好きなボーイズラブ小説を書きはじめたと。ほらトワちん、鼻水ふきな」 「うえええええええええ」  詩帆に促され、おれは部屋の箱ティッシュから無造作に数枚を取り出し、ぐしぐしと顔中を拭った。  あのあと、詩帆に「頑張れー」「ファイトー」「もう少し!」と激励を受けながらなんとか帰宅し、部屋に駆け込んだ。自分の気持ちがすっかりバレてしまった相手に、なにを話していいかまったくわからず、とりあえずボーイズラブを書き始めた経緯を話した。颯をどうして好きになったとか、そんなことを聞かれたくなかったから(詩帆がそういうこと聞かないって、わかっていても怖かったのだ)。  涙でベッタベタになったメガネをはずし、大きな音を立てて鼻をかむ。階下から母さんが「瞬、ご飯よ。手伝いなさい」とおれを呼んだが、いらないと断った。母さんは、部屋の前まで来て「どうしたの」と言ったけど、おれが扉を開けないでと頼んだら、それ以上はなにもしなかった。おれの声はたぶん震えていたけど、詮索されなかったのはありがたかった。  頭がぼんやりするまで泣いてから、おれは一体なにが悲しくて泣いてんだと、ちょっと冷静になった。すると呼吸も落ち着いて、喉で転がしていた空気が肺にまで届きはじめた。 「落ち着いた?」  詩帆がいう。  おれはコクリとうなずいた。こんなところを見られたのが気恥ずかしくて、だけど詩帆がそばにいてくれて良かった、とも思った。 「ごめん」 「えー、なんで謝んのー。アタシとトワちんの仲じゃん?」 「どういう仲?」 「ボーイズラブ愛好家仲間の仲!」  いひひ、と詩帆はくったくなく笑う。  そこなんだ、とおれは思う。そこでいいんだ、とも思う。うん、たぶん、それでいいんだ。じんじんする鼻をティッシュで押さえて、おれも笑った。  窓の外は、すでに黄昏ていた。もう間もなく、夜がはじまる。おれと颯を、隔てる夜が。 「シュレ猫さんてさあ」  不意に、詩帆がその名を口にした。なにも言えずに、おれは首を傾げる。 「シュレ猫さんが小説を書きはじめたのって、確か去年の冬だよね」 「……うん」 「そっか。……そっか、うん」  詩帆は、何度かうなずいた。おれは、次になにを聞かれるのだろうと身構えた。  シュレ猫の自分を、おれは好きじゃなかった。叶わない夢を投影している自分が、颯の、たったひとりの存在になる自分が、それを望む自分が、ひどく気持ち悪くて、なのにいつまでもやめられない自分が、本当に嫌だった。 「トワちんはどうしたい?」 「え?」  思いがけない問いかけに、おれは聞き返した。 「なんかこうさ、あーしたい! こうしたい! 5000兆円欲しい! みたいなこと、なあい?」 「突然言われても」 「5000兆円欲しくないの?!」 「規模感がわかんない」 「マジ? アタシはほしい!」 「そう」 「それからアタシは、ソウタの家に行きたい」  はっと、目が見開く。泣きすぎたせいで、目の縁が痛んだ。 「そう、なんだ」 「さっき殴って、変な声出させちゃったしさあ」 「殴ったんだ……」 「殴っちゃったねえ、勢いよく……」 「おあああ……」 「で、トワちんは?」  どうしたい? と、詩帆の瞳は、真っ直ぐにおれを見ていた。その虹彩は、水晶のようにキラキラと輝いている。生きているときから、ずっとそうだったみたいに。  たった一言を紡ぐために、唇が震えた。でも、今、この瞬間、詩帆には素直でいたかった。素直でいなくちゃ、いけない気がした。 「おれも」 「うん」  詩帆は、嬉しそうに目を細めた。 「おれも、颯のところに、行きたい」 「行きなよ」 「でも」 「いいの。行っていいんだよ、トワちん」 「だけど」 「ていうか、行け」 「ひどい」 「アタシは行けない。でも、トワちんは、ソウタのところに行けるから。こりゃ、トワちんが行くしかないでしょ?」  ね? と詩帆が微笑む。  おれは拳を握りしめ、唇を噛んだ。歯が食い込んで、痛みが広がる。太ももを拳で三回叩いた。 「うん」  うなずき、おれは立ち上がった。よっしゃ! と、詩帆が小さくガッツポーズをした。 「アタシが殴ったこと、謝っといて!」 「どうやって」 「そこは、ほら、適当に」 「きみさあ」 「ほらほら、早く行った行った!」  詩帆がおれを囃し立てる。本当は、途中まででいいからついてきて欲しかったけど、それじゃダメだって、おれにもわかる。  詩帆に背を向け、おれは部屋の引き戸に手をかけた。 「トワちん」 「なに?」  おれは振り返る。そこには、いつもみたいに、制服姿の詩帆が立っていた。 「アタシ、シュレ猫さんの書く攻めが大好き!」  詩帆はやっぱり、イヒヒと笑う。いちどだけ瞬きをして、息を吸い込んだ。 「おれも、好き」  詩帆よりぎこちなく、だけど、おれも笑った。
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