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 「安藤さん、ちょっといいですか?」  「はい」  呼び掛けられて振り向くと、彼女が息を呑むのが分かった。まあ、妥当な反応だ。  「……安藤さん、あの……それ、また?」  「すみません。びっくりしますよね」  今朝の傷は、想定よりも酷く腫れた。何度殴られても、腫れるときとそうでないときの差が良く分からない。これはまずいと思ったときに思うほど腫れなかったり、大したことはないと決め込んだときに限ってぱんぱんになったりする。今回は、多少腫れそうとは思ったが、こんなに酷い色になるとは思わなかった。赤と黄色の狭間、汚い色のアザが左の頬に大きく広がり、見映えが悪い。マスクをするのも痛いから、朝の電車もこのままで乗ってきたのだが、そこかしこから遠慮気味にちらちらと寄越される視線が痛かった。こんな時ばかりは、自分の無駄に高い身長が憎い。悪目立ちだ。痛そうと眉を顰める彼女に向かって微笑もうとしたのだが、痛みで引きつる笑みは不格好で、こちらの意図とは関係なく、何となく凄みが出てしまう。笑うことに失敗した安藤は、彼女の怯えた表情に向かってもう一度、すみませんと謝った。  「……そう、従兄弟がね」  嫌われちゃってて、どうしようもないですねと肩を竦めてみせる。最初のとき、その場しのぎのごまかしで口にした“年下のやんちゃな従兄弟”の話が知らぬ間に広まって、今ではもう、殴られた痕について一々説明する必要はない。安藤義則議員の親族にはずいぶんな人間がいるらしい、とか。裏でどんな噂が広まっているかは知らないが、別にまあ、それはそれで構わない。この程度の噂話など意に介さぬ程に、父の威光は偉大だ。最悪、何か問題が起こりそうになれば揉み消せる。それだけの財と、人脈がある。それは安藤自身、身を以て知っていた。  「……氷、要りますか?総務の冷蔵庫に保冷剤あったはずですけど」  「本当ですか?ありがたいな。後で取りに行っても良いですか?」  「もちろん。18時まではいるので、それまでに来ていただければ」  「じゃあ、後で寄らせてもらいます。……それで、井出さんのご用件は?」  「ああ、あの、この間の資材発注の件で確認したいことがあって……」  続く彼女の言葉には意識の表層で事務的に応じながら、内はたゆたう思考に沈む。  父としての安藤義則の姿を、安藤は薄ぼんやりとしか想起出来ない。テレビ越しの目。彼を囲む多くの人々。向けられるマイクと、胸に光る議員バッジ。世の数多の人々と同じように、安藤にとって、安藤義則という人物のイメージはそればかりだった。安藤にとって家族は、おとなしい母と利発な弟と、それだけだった。医学部を卒業した弟は、政界に進んだ。自分が今こうしていられるのはそのおかげと知っているから、彼には感謝している。とはいえ弟からすれば、親に反発して早々にドロップアウトした兄のせいで、あんな場所に身を置かざるを得なくなったことが本意であるはずもなく、昭和の箱入り娘が抜けない母は父の言いなりで、そうなれば自然、安藤は家族とは疎遠にならざるを得なかった。それを悲しいと思ったことは一度もない。悲しいと思えないことに悲しみを感じるようになったのが最近で、安藤はその変化を一つの成長と捉えている。次に家族と顔を合わせるのは、誰かが死んだときだろう。人の死は、人を集める。死は縁だ。不思議なことに。  19時を回った頃、俺も上がるよと最後に残っていた同僚に声をかけられ、安藤はお疲れさまですと応じた。会社の研究部門はフレックス勤務で、全体会議のある月末を除けば、入りも上がりもそれぞれだ。成果主義の厳しさはあるが、自由度は高い。一人きりになった研究室で、安藤はふっと息を吐いた。人気のない室内に、機器を冷ますファンの回転音が静かに響く。廊下の足音に耳を澄ます。人の気配はない。警備の巡回は少し前にあったから、イレギュラーがない限り、ここにはしばらく誰も来ない。ポケットからキーを取りだし、デスクの引き出しを開ける。A4ファイルが横向きに立てて入れられる程に深さのある引き出しは、手前と奥で二つに仕切られ、手前には研究に関わる書籍、奥には財布や手帳といった私物が放り込んである。安藤は引き出しを大きく引き開け、財布の隣に置いたアルミの名刺ケースを取り出した。引き出しを閉じて、ケースを開く。中には、小さなチャック付きポリ袋が3袋、その外側を更にビニール袋にくるまれて入っており、小さな袋のそれぞれに、少量の白い粉が収まっている。一袋1グラム。末端価格で6万円。不便だよなと、いつも思う。アメリカではアンフェタミンはADHDの治療薬だ。診断を受けていれば持ち歩くことに何ら問題はない。それなのに日本では非合法。覚醒剤の一種とされ、忌避される。所持していれば一発で逮捕だ。まあそうは言っても。安藤自身は道を歩いていて職質をかけられるタイプでもないし、それほど困ることはない。怖いのは太一だが、不思議と彼も、未だ捕まったことがない。安藤はかちんと音を立ててケースを閉じ、机上に置いた。仕事用の白衣を脱ぎ、引き出しに仕舞う。私物入れにしていたのとは別の引き出しを空けると、中には、朝買った今日の日付のスポーツ紙と、水の入った霧吹き、ゴム手袋とごみ袋が入っている。新聞を2枚引き出し、適当なサイズに降り畳んで机に敷き、表面を霧吹きで湿らせる。ゴミ袋は口を大きく開いて、机の下の空間にセットした。ゴム手袋を両手にはめ、薬包紙は備品を拝借し、3枚、濡らした新聞の真ん中に並べた。そこで名刺入れを手に取り、ゴム手袋をはめた手で小袋を一つ一つ取りだす。その後、持ち込んだ薬匙で少量ずつ中身を掬い、薬包紙に載せた。これから行うのは純度試験だ。不純物の多い薬を使うとろくな事にならない。安い酒で悪酔いするのと同じで、質の悪い薬は余計なところに余計な影響を及ぼす。60年代、手軽さから大流行したLSDの偽装ドラッグエヌボームや昨今もブームが引かないヘロインなどは最悪で、毒を飲んでいるようなものだ。最悪は死に至り、そうでなくとも、常習化すれば脳に不可逆のダメージを受けることもあり得る。太一には絶対に触らせるつもりはない。本当は、大麻で満足してくれるといいのだけれど、ダウナードラッグでは太一の気は紛れないようで、妥協案が覚醒剤だった。裏で取引される覚醒剤は北朝鮮のものが最も純度が高い“一級品”とされているが、誰もが求める質の良い薬は価値が跳ね上がり、末端価格は通常の5倍にもなるという。太一とつるんでいる連中にはそんなものに手が届くような人間はいないから、太一のコミュニティで取引される可能性は万に一つもあり得ない。回ってくるのは二流品ばかりだ。だから、自衛が必要になる。大体地区毎に元締めがおり、それぞれ取引先は決まっているから、その地区の覚醒剤の純度には大きな差は出ない。ただ、末端まで下りてくる薬の質は、元締めの経営状況に左右されることもままあり、定期的に確認しないと粗悪品をつかまされることもある。そうでなくとも、太一などは末端の末端。稼ぎのためにわざと質を落とされる可能性も無いわけではないなら、定期チェックは必須だった。だからこうして、安藤自身の手で純度試験を行う。太一には一度にある程度まとめて購入するように言ってあって、まとめて購入した数パケ分を同時に確認する。別に、小麦粉を混ぜられる程度のことなら問題はない。意思の有無にかかわらず、余計な毒が混ざることが最大の問題事だった。  痕跡を残さないよう細心の注意を払いながら一連の手順を終え、安藤はゴム手袋を中表に外してゴミ袋に投げ込み、袋の口を縛ってほうと息を吐いた。今回の3袋は全て問題なし。今夜は家にいるはずだから、帰ったら太一に渡してあげよう。太一が今のバイヤーから買うようになって4年が経つが、これまで一切質の変化がない。押し売りまがいの行為もなく、行儀がいいからいざこざも聞かない。いざこざがないということは、目立ちにくいということだ。調べが入ると言う話も出てこない。今までの取引相手と比べても、今の売り子は格段にいい(・・)。危険を避けて売り場は何度か移っているらしいが、太い客は離さない。逆に、危なげな相手とは早々に手を切っているようだから、結構な切れ者なのかもしれなかった。  今夜は二人だからと、帰りにデパートでワインとデリを購入して機嫌良く帰宅した安藤は、想定外の光景を目にして表情を曇らせた。  「……いない」  アパートの下から部屋を見上げ、5階の角部屋の明かりが点っていない事を確認して足を止め、安藤は不穏に呟いた。胸の奥で、沼底の泥のようなどろりとした不快が蠢いて騒ぐ。いない。いない。太一がいない。何かあったのか。帰れない事情が、何か……否。否と、安藤は思う。帰れない事情があるから、なんだというんだ。帰れない事情?俺との約束を違えるほどの事情?そんなものがあり得るのか。あり得るはずがない。あり得ないことだ。  どろりとした情緒が、身体の中心から湧き出して体内を埋める。重たい泥の中で拍動する心臓は緩慢で、泥の溜まった末端の重みは刻々と増し、反比例する様に頭は軽くなり、散漫な思考はシャボン玉で、ぷわっと浮かんではぱちんと弾け、頭蓋の中で弾けたシャボン液の飛沫が過敏な肉にいちいち染みて、安藤の苛立ちは右肩上がりだった。  ぱちんぱちんとシャボンが弾ける音を聴きながら、気づいた時には安藤の身体は真っ暗な室内にあり、手にした紙袋を無造作にテーブルに置くと、惣菜の上に寝かせて置いたワインのボトルがぶつかり合ってガチンと大きな音を立てた。冷房は切れているが、締め切った部屋の中はヒヤリとしている。太一がここを出てから30分……いや、一時間くらいは経っているかもしれない。太一の冷房の設定温度は19度だ。電気はつけないまま、羽織っていたスーツのジャケットを脱いで椅子の背に掛け、冷蔵庫の野菜室から缶ビールを取り出してその場でタブを上げる。イライラする。むかつきを抑えるために勢いよくビールを煽り、そこでようやく、頬の傷のことを思い出した。突き抜ける痛み。破れた粘膜。無数のシャボンが一気に弾ける。アドレナリンが過剰放出され、指先がわなわなと震え出す。力加減を失った手の中でビールの缶がめこっと音を立て、飲み差しの口からごぽりと液体がこぼれ出て右手を濡らした。  ちょうどその時、がたんと、玄関で物音がした。ガチャリと鍵の回る音がし、ガチャガチャいう音がそれに続き、直後、しんと、音が消える。締めたはずの鍵が開いていた事に気づいたのだ。太一は今、真っ暗な室内に在る安藤の存在に思い至ったはずだ。ほんの一瞬の逡巡。その後、かちゃりと控え目に、もう一度鍵が回る。  「……ただ、いま」  静かな暗闇に向かって放たれた太一の声は幻のような力なさで、数秒漂って、すぐに跡形もなく消えた。  「……おかえり、太一」  応じる声の瑞々しさに驚く。泥で身の内をいっぱいにして、シャボン液でぱりぱりになった空っぽの頭蓋で、どこからこれほどの瑞々しさが生まれるのか。白々しいほどの爽やかさ。おぞましい程純真な響き。けれども、口の中に残るのは苦味だ。瑞々しさと苦み。口元に浮かぶ笑み。体内を満たす怒り。竦む太一の詰めた息の苦しさが、部屋の空気を伝播して、離れた安藤の皮膚に触れる。  「早く上がりなよ」  声をかける。姿は見えない。でも見える。よく、見える。太一は震えている。本当は、部屋に入りたくはない。でも、逆らえない。太一は俺に逆らえない。だから、震えながら靴を脱いで、見えない糸に引っ張られて、嫌々足を進めるのだ。そうして、叱られた子犬のような目をして、俺を見る。自分が悪いのに。哀れっぽく、見上げてくる。冷蔵庫に背を持たせ掛けた安藤は、一口しか口をつけていないビールをシンクに放った。着地した缶はけたたましい音を立て、太一は明確に身を竦ませたが、目は、逸らさなかった。  何も言わずともごく至近距離までやってきた太一の頬を指先で撫でる。ぐっと顎を摘んで上向かせると、ぬぐい損ねたらしい真っ赤な口紅が、掠れて唇を汚していた。呼吸が浅い。目が潤んでいる。そろりそろりと頬を撫でると、汚れた唇が薄く開き、熱い吐息が隠微に溢れる。  「……なに、飲まされたの?」  下唇に親指を当て、真っ赤な汚れを拭いながら問うと、太一は小さく首を振った。  「……分かんないの?俺との約束破って女と会って、わけ分かんないもん飲まされてきたの?」  自分の意思じゃなければ、俺が許すと思った?  朝食がスクランブルエッグの日の夜は、必ず、家にいること。  純度検査をした薬以外、絶対に口にしないこと。  びくりと、太一の肩が揺れる。暗闇に慣れた目に、淡く上気した白い肌がはっきりと見えた。  「……最寄り駅にいるって……急に連絡があって……」  「……家、教えたの?」  「教えてない!教えない!前に尾けたって!」  慌てて否定する太一の目はこぼれ落ちそうなほど大きく見開かれ、無実を訴える声は震えていた。尾行される間抜けも、男を尾ける女の情念も、どちらも等しく愚かしい。苛立たしさに、安藤の笑みは更に深まり、閉じかけていた唇の端の傷口が、びっと開いた。  馬鹿な友人に家を教えないこと。  セックスは構わない。ただ、〝それ以上の親密さ〟を求めてきた相手からは速やかに離れること。  「うん。分かった。信じるよ。それで?」  「……それで……お前が、来るから、帰らせようと思って」  「ああ……俺に見られたくなかったの?」  「……機嫌、悪くなるから」  「うん。まあ……太一の友達ってみんな馬鹿でグズで不快。で?」  「……だから、帰そうと思って、駅まで、行って」  「はは。駅まで行ったの?わざわざ?それで薬盛られて襲われてれば世話ないな」  声を上げて笑い、次に出た声は驚くほどに冷ややかだった。馬鹿な太一。可哀想な太一。薄汚い女が意中の男に口移しで飲ませる薬なんて決まっている。セックスドラッグ。多分、ピンク色でハートが浮き出た丸いやつ。尻も頭もふわふわ軽い、彼らに、似合いの。  「……で、その子はどうしたの?」  「……突き飛ばして置いてきた、けど、」  顎に触れた手をずるりと下に下ろし、手のひらを彼の首にひたりと沿わせると、太一の瞳の潤みは更に一段増した。手のひらを伝って伝わる小刻みな震えは恐怖のそれで、目から溢れる雫は歓喜だった。震えながら媚びる彼を、いつも酷く、哀れと思う。哀れで、可愛くて、憎らしい。馬鹿だからなあと、そう思う。太一は馬鹿だから。どうしようもないクズで、馬鹿で、短絡的で、衝動的で、快楽主義者で、マゾ。だからちゃんと、閉じ込めておかないと。  親指にぐっと力を込める。太一の眉がぐっと寄った。その表情は悩ましげですらあった。苦しげに開いた口を、唇で塞ぐ。色を失ってもまだ残る紅の油臭さが、つんと鼻に抜けた。ぐちゅりと舌を差し入れると、嬉しげにのたうつ太一の舌が、獲物を見つけた蛇のような素早さで安藤を捕らえ、絡みついた。舌先が熱い。灼かれそうだと、そう思う。ぐずぐずに熱せられた熱塊に、頭も身体も灼け焦げそうだ。灼け焦げて、炭になって、ぼろりと崩れて、細かな粒子になって、風に吹かれて、飛んでいきそう。飛んでいきたい。どこか、遠くへ。  太一の膝ががくりと崩れ、手のひらが、唇が、彼から離れる。熱が逃げる。瞬間、ぞくぞくとした寒気が背中を上り、安藤は反射のように身を震わせた。太一の熱を失った一瞬、身体が、氷のように冷たくなったと錯覚する。そんなはずはないのに、なぜか酷く、肌寒い。足元に跪いた太一が背中を丸め、ごほごほと咳込む。喉にめり込んだ指の感触がリアルだった。  「……太一」  小さく丸まった背中を見下ろして、声をかける。俺のだ。俺の太陽。ねえ太一。お前に手を出した、馬鹿な女の名前を教えて。  少し前の苛立ちが嘘のように気分が良かった。爽快と言ってもいい。夜気に満ちる窒息しそうな湿っぽさも、人のいない裏通りの侘しい静寂も、今の安藤にはただただ快かった。太一は部屋にいる。出るなと言ってあるから、外に出ることは絶対にない。太一は素直だ。彼の美徳。安藤は、太一と幾つも約束をする。  隣人の迷惑なるから、早朝や夜には大声を出したり煩くしたりしないこと。薬がキマっていると間違うこともあるが、安藤が指摘すれば一瞬で大人しくなる。  ものに当たる時は、ダイニングテーブルの太一の席の隣の椅子を標的にすること。おかげさまで、我が家で傷だらけなのはあの椅子だけだ。  少しずつ、少しずつ。太一が気がつかないほどに僅かずつ、安藤は彼を閉じ込めている。太一は馬鹿だ。馬鹿だからきっと、指先一つ自由にならないその段になってようやく、自分が閉じ込められていることに気がつくのだ。その時にはもう、後戻りは出来ない。太一には安藤しかいなくなって、食事も排泄も生きるも死ぬも、安藤の心一つになる。そういう日が、いづれ来る。  誰もいない暗がりからぬっと、街灯の光の輪の中に小さな影が現れた。  「……ユカちゃん」  転べば足首を折りそうなピンヒールに、太もも剥き出しのミニスカート。ゆるりとしたシルエットのトップスは、肩部分を片方つけ忘れたような中途半端なデザインで、数年前から流行り出したワンショルダーの良さが、安藤には全く理解できない。呼びかけに応じて、彼女は足を止めた。  「太一探してんの?」  「……そーだよ。おにーさん、タイチの知り合い?」  剥き出しの若い肌はいかにも太一好みの子供っぽさだったが、唇に塗りたくられた真っ赤な色は、女を主張して媚びていた。下品な色だ。安藤はふっと笑んでみせ、足音を立てずに彼女に近づき、ふざけるなよと笑顔で告げた。身を引きかけた彼女の細い腕を掴んで引き留め、ヒールで底上げしても頭ひとつ分低い位置にあるその顔を至近距離で見下ろし、声ばかりは低音で凄む。  「……他人(ひと)のもんに手出してんじゃねぇよ」  「……他人のもんて何」  ぐっとこちらを睨めあげる視線は、意外にも強い。怯えも、ないわけではない。それでも、安藤の目を真っ直ぐに見返す視線の強さには、ちょっと感服する。こいつもいいなと、そう思う。力では絶対に敵わないことも、この人通りでは助けなど望めないことも、分からないはずがないのに。それなのに、折れない。それが、とてもいい。とてもいい、が、しかし。  太一ほどではないかな。  自分に向けられる攻撃的な目を、挑戦的な目を、安藤は欲して止まない。媚びない目。期待のない目。安藤を、安藤義則の息子として見ることのない、目。その目を、閉じ込めたい。閉じこめておきたい。  「他人のもんは他人のもんだよ……あいつセックス大好きだからさぁ、やりたいだけならいくらでも出来んでしょ。余計なことしなければそのくらいの自由はやったのに、馬鹿だね……あ、それとも何?ソッチも相手にされなかった?……それならちょっと気の毒だけど……まあ確かに。俺はユカちゃんじゃ全然勃つ気しねぇな」  ミルクの香りが立ちそうな柔い肌、握れば折れそうな細い手足。いや、この子に対してだけではない。柔らかさと丸み。弱さの象徴のような女の身体に、いつからか全く興奮しなくなった。弱さは、罪だ。  鼻で笑って言い捨てると、ユカはその頬にかっと朱を上らせ、離してと腕を振った。彼女はルールを破った。太一と、俺のルールを侵した。その罪は重い。逃すつもりはない。安藤は、逃げ出そうとする彼女を掴む手に遠慮なくぐっと力を力を込めた。  「っ、やめてよ!」  痛みに顔を顰めた彼女が高い声で短く叫び、きゅっとこちらに顔を向けた。その目にはまだ、意志がある。抗う意志。やっぱり、いいな。勝ち気な子は好きだ。この目に見られると、身体の芯がじわりと熱を持つ。生身が向かって来る感じ。安藤が安藤である事を忘れさせてくれる目。抗するように、安藤も生身になる。生身の一人になり、ただ、生身でぶつかり合いたいと願う。誰でもない一人として。数多の中の、一人として。俺が何者であっても、俺を恐れないで。  握った腕をぐっと引き、バランスを崩した彼女の腰にもう一方の腕を回して、恋人のように抱き寄せる。ぴたりと身体が密着したその瞬間、ユカの目に初めて、明確な恐怖が浮かんだ。  「……やめて」  蚊の鳴くような声で、女が囁いた。唇が触れそうな距離まで顔を寄せると、真っ赤な割れ目から溢れる吐息に、つい先ほど、太一の唇の上で感じた油臭さがつんと混ざった。  「……お願い、聞いてくれたら帰してあげる」  その姿勢のまま囁くと、ユカはぐっと顔を背けて強く目を閉じた。腰に回した手で彼女の手首を掴みなおし、腕を掴んでいた手を離す。腕一本で抱え込むと、更に密着度が増して、女はひっと短く悲鳴を上げた。空いた手をポケットに突っ込んで、太一にバレないようにこっそり持ってきた果物ナイフを引っ張り出す。刃先に巻いてきた新聞紙は、ポケットに残した。  「……これで、」  俺を刺して。  ユカの手に柄を握らせ抱く力を緩めると、おずおずと目を開けた彼女の視線はゆっくりと自身の手元に落ち、次の瞬間、状況を理解したその目が驚愕に見開かれた。それを見た安藤は薄く笑い、ナイフを持ったその手ごと包み込むように握り込み、耳元に囁いた。  「これで刺してくれたら許してあげる」  そうじゃなければ、このまま警察に連れて行く。  ヤるつもりで盛ったなら、自分も飲んでいるはずだ。現物も持っているかもしれない。捕まるのが嫌なら、話に乗ってくるだろう。……これで駄目なら、物理的に痛めつけて脅す以外にない。  薬物乱用で捕まるのと、隠蔽の為に傷害を重ねるのと。あの頃の自分が同じ選択を迫られたら、俺はどちらを選ぶだろう。ちらりと考え、安藤はすぐに断じた。俺は、きっと迷わなかった。高校の頃の自分は迷いなく、捕まる方を選んだだろう。捕まれば自分だけの問題で済まない事は、皆知っている。入手経路が洗われる中で、確実に、仲間達にも調査の手が及ぶ。怖いのは、捕まる事そのものではない。戻る場所を失うことだ。仲間を失うことだ。それが多分、一番怖い。あの頃の自分には、怖いものなど何もなかった。守りたい場所も、仲間もない。道を外れたのはただ、父を困らせるためだった。居場所も仲間も、どうでも良い。諸悪の根源は父と決めつけた十代のエネルギーはひたすら、その父を貶めるためだけに暴走し、周囲を巻き込んで膨張し、しかし、結局。安藤の全てを賭した暴動は、宿敵たる父の座にかすり傷一つつけられずに幕となった。今でも忘れない。電話一本で息子のおイタを諫めた男は、受話器を置いて開口一番、そろそろ満足かと問うたのだ。一年遊んで、満足したか。その目には、わずかの動揺もなかった。怒りも、悲しみも、蔑みすら。およそ感情と呼べるものの発露がない、そんなのっぺりとした視線が安藤を向いていた。罪を犯した息子を見る父の目でなどあり得ない、酷く冷めた視線だった。もう何をしても無駄だと、あの時、悟った。腕も上がらぬほどの虚脱感で呆然とする安藤に向けて父が放ったのは、お前は私の人脈を継ぐ気があるのかという無味乾燥な問い一つで、それを聞いた瞬間、身体も心も石膏像のようにぱきりと硬直した。唐突に理解した。この男にとって、自分は字義通り、どうでもいい存在なのだ。安藤が安藤である必然はそこになく、父が欲しているのはただ、アクセサリーとしての完璧な息子であり、いずれは父の全てをその身に受け入れる、外形を整えた空洞の人形だ。ぎりりと固まった身体をなんとか動かしてようやく首を振ると、父はそれにも全く動じず、ただ一言、そうかと応じた。  ーそれにしても大学だけは行くように。就職は、心配しなくていい  安藤義則の子として恥ずかしくない人間になることと、言外の声が聞こえた気がした。  「……もし、刺したら……あたしが刺したって言うの?」  震える声が、安藤の意識を今に引き戻す。向き合う瞳の、その奥。恐怖で震えるその身の奥に、ちりと微かに、でも確かに、意志の炎が揺らめいている。そうか。この子は、“持つ者”か。守りたいと思える居場所を、仲間を。彼女は確かに持っている。それを羨ましいとは思わない。今は。今は大丈夫。だって、俺も、持っている。守るために、戦える。  「絶対言わない」  約束する。  励ますように微笑み掛けて。ナイフを握るその指先を優しくさする。  「……どうしたらいい?」  意を決した彼女が言い、安藤は拳に添えた手で彼女の手をそっと導いた。  「……ここで、構えて」  俺も手伝うから、しっかり押し込んで。  ワイシャツの腹に刃先が触れる位置で手を止め、噛んで含めるように言い聞かす。俺がいいって言うまでは離さないで。……死なない?この程度じゃ死なない。大丈夫。額を突き合わせるようにして言葉を交わし、宙ぶらりんの彼女の左手をナイフを掴んだ拳にかぶせてしっかりと握らせる。  「……じゃあ……せーのでいこう。OK?」  こくりと、蒼白な顔で彼女が頷く。ナイフを握る両手が震えていた。潤んだ瞳に、大丈夫と笑って見せる。定まらない刃先を止めるため、一方の手をその拳に添え、もう一方で剥き出しの肩に触れ、いくよと囁く。  「……せーの、」  声と同時に身体を倒す。あ、と彼女が声を上げた。  ぐっと重みを乗せた安藤を、彼女は全身で受け止めた。前に出ることはない、が、後ろに引くこともなかった。肝が座っていると、場違いに感心する。ぷつりと、ワイシャツの布が切れたのが分かり、直後、同じように、皮膚が裂ける。  ぷつり  喉奥で呻き声を噛み殺す。ズズッと、刃先が身体にめり込んでいく。  「……っ、ふ」  今にも泣き出しそうな声を上げたのは、ナイフを握った女の方だった。脈打ち広がる痛みの最中、気味がいいと、安藤は思う。人の肉を切る感触なんて、気持ち悪いに決まっている。生きて動く、熱い肉を刺す感触が、小さなナイフの刃を通して、彼女の手のひらに伝わり、身体に心に雪崩れ込む。この子きっと、もう二度と、太一に近づくことはないだろう。この少女の身体の中で、太一の姿は安藤の肉の感触と一つになって混ざり合い、おぞましい恐怖を形作るに違いないのだ。他者を傷つける恐怖。加害者になる恐怖。可哀想なユカ。哀れな女。  黒く縁取られた彼女の目元に、つと涙が伝った。いよいよ逃げ出そうとする身体を、安藤は再び抱きしめた。両腕に力を込めて彼女を抱くと、二人の間に挟まれた拳が柄が、否応なく押し込まれてめり込み、痛みは熱にとって代わり、毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出す。ぐっと、堪え切れずに呻くと、彼女がぱっとこちらを向いた。その表情は、先ほどとは別の恐怖でぐちゃぐちゃだった。安藤は思わずうすら笑み、抱きしめる腕を緩めた。  「……あ……」  よろりと身を引いた彼女と一緒に、ナイフがずるりと引き抜かれる。からりと軽い音を立てて、凶器が地面に転がった。  「……ご……めん、なさい……」  血濡れた手を戦慄かせて、両の目からぼろぼろと涙をこぼしながらそう言う彼女に、それ拾ってと砂に汚れたナイフを示す。しゃがんで立ち上がれる気がしない。脂汗が止まらない。踊り出したいほど愉快なのに、身体が全然動かない。予想外の痛みだった。こんなに動けないとは思わなかった。何事も、やってみないと分からないものだ。泣き続ける彼女は動かない。……いや、動けないのか。腹の辺りが熱い。そのくせ全身は段々と冷えてきて、末端から、小刻みな震えが上る。僅かな静寂。唐突に、誰かの馬鹿笑いが遠くに聞こえた。ユカの肩が大きく跳ね、素早い動きで背後を振り返る。普段ならば気にもしない気配を、第六感で懸命に追う。過敏になっている。彼女も、自分も。背後に人影のないことを確認した彼女が再びこちらを振り返った。怯えるその目は、早くここから離れたいと訴えていた。  「……それ拾ったら、帰っていいよ」  だから今度は、安藤の言葉に対する反応は素早かった。すっとと膝を折って、赤色を纏ったナイフを拾い上げた彼女は安藤に向かってそれを差し出し、俯いたまま、ごめんなさいともう一度言った。そのナイフを受け取る刹那、安藤と彼女の指先が一瞬触れ合い、すぐに離れた。彼女の目は一瞬、安藤の腹の傷口をかすめ、すぐに身を翻して駆け出した。  「……バイバイ」  走り去る彼女はもう、振り返らなかった。
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