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マンションから程近い小さな公園は、昼間でもほとんど人影はない。周囲は独居者向けマンションばかりのこの場所にある公園の存在意義は、一体なんなのか。遊具はほとんど無い。あるのは砂場と、最近はあまり見かけない、タコを模した滑り台が一つ。敷地の周りはぐるりと木に囲われており、隅には一本、ソメイヨシノが植わっている。わざわざよるものはほとんど無いが、春にはなんとなく、ここの桜を見上げてしまう。こじんまりとした木ではあるが、春になれば、木肌を隠すほどに隆盛した薄桃色の花が、甘い香りを放って艶やかに咲き誇る。重い足を引き摺って、公園に踏み込む。もう限界だった。部屋まで戻る気力がない。刺された腹から滲み出した血液は重力で流れ落ち、スラックスの右腿までをじっとりと濡らしていた。肌を伝った滴が内腿を濡らし、動くたびにヌルリと擦れる。押さえるものを持ってこなかったのは失敗だった。じっとりと張り付く布が気持ち悪い。柔く吹く夜風が、腹の穴に染みた。寒い。硬い地面にずるりずるりと足跡を刻みながら、安藤はタコに向かって進んだ。タコの中は空洞になっていて、あの中なら多分、少しは暖かい。子供の頃の記憶だ。幼い頃の記憶。二学期が始まったばかりだったから、多分、秋口だった。泣きながら家を飛び出して、近所の公園に逃げ込んだ。暮れかけた空は血のように赤く、カラスが高い声で鳴いていた。その公園にも大きなタコがいて、安藤はその中に隠れていた。そこは、安藤の気に入りの場所だった。学校から帰ると“お勉強”が待っている。“将来のため”に、中学受験は絶対に成功させなければならない。家に帰ると、自由な時間は一つもなかった。だから安藤には、学校帰りに毎日20分、このタコの中で過ごす時間が特別だった。友達に借りた漫画を読んでも良かったし、何もせずボーッとしていてもいい。誰にも何も咎められないその時間が、何よりも大切だった。
タコに向かって歩を進めながら、ポケットに入れた携帯を取り出し、すっかり記憶している11桁をのろのろと打ち込む。普段は何気なく持ち上げる携帯が、今はひどく重い。通話ボタンを押して耳に押し当てると、コール2回で繋がった相手は、電話の向こうで無言だった。
「……公園の、タコのとこ」
来て、と、それだけ言って電話を切る。そうして、携帯をポケットに戻した時にはもう、安藤の身体はタコの傍にあった。まあるいタコの表面を手のひらで撫でると、塗料の剥がれた頭はざらりとしており、冷え切った指先にほんのりと暖かい。足元にまあるく口を開ける入り口は、記憶よりもずっと小さかったが、覗き見る内部は十分に広かった。
家を飛び出した自分を、母は探しに来たのかどうか。安藤には分かりようもなかった。自分を呼ぶ声が聞こえたらすぐに飛び出せるように、タコの中で丸まった幼い安藤は、じっと耳を済ませて母を待った。少しでも声が聞こえたらすぐに出ていくつもりだった。しかし、待てども待てども声はなく、安藤はやがて眠ってしまった。今思えば、外聞を過度に気にする母が、大声で子供の名前を呼んで歩き回ることなどできるはずもなかった。だから、もしかしたら、探しに出るくらいはしていたかもしれない。心配して、辺りを探し回ったかもしれない。言われるがままにペンを握る安藤しか見てこなかった母親には、公園の滑り台の中に我が子がいるかもしれないという発想自体がなく、見つけ出すことが出来なかっただけかもしれない。今なら、そう考える事もできる。けれどもその時は、そんな風には考えられなかった。父の支配の下でしか生きられない母以上に、あの頃の安藤は何も知らぬ子供だった。だから、真っ暗なタコの中で目覚めた時、自分は捨てられたのだと、そう思った。言うことを聞かない悪い子だから、父にも母にも捨てられた。悪い自分を見つけてくれる人なんて、誰もいない。良い子でいなければいけない。良い子でない自分は、いないも同然だ。誰の目にも映らない。悪い子は見えない。悪い子は一人ぼっちだ。どうしよう。どうしよう。僕は透明人間だ。もうきっと、誰にも見つけてもらえない。家に帰っても、お父さんもお母さんも、僕が見えないかもしれない。僕はもうどこにも居ないのかもしれない。どうしよう。どうしよう。怖くて怖くて仕方がなくて、安藤はそこから動けなかった。暗闇で、目だけを爛々と見開いて。誰か。誰か、僕を見つけて。このまま見つけてもらえなかったら、僕はもう、どこにも居ない。どこにも、居られない。
ー……何、してるの?
「……義崇!」
丸い窓から、太一がこちらを覗いている。あの日も、今も。きらきらした綺麗な目で。透明人間を見つけ出せるのは、太一だけだった。滑り台の中で横たわる安藤を視界に入れた太一の表情が曇る。鼻の頭にシワが寄る、動物じみたこの表情が安藤は好きだった。怒っている。
「……っ、お前、何?どうした?」
ずるずると座り込んだら立てなくなった。座位を維持することもできない。口から溢れる息が熱い。身体は冷え切っていて、まるく背中を包むタコの胎内は暖かい。どろりと満ちる血の臭いはタコの腹の中にいるせいだと、そう思う。痛みはない。ただ、眠たい。太一がきたから、もう、眠ってもいいかな。
「……おなか、」
「腹?腹が何?」
閉じそうな瞼を無理やりこじ開けて囁くと、太一の手が腹部をまさぐるのが分かった。ぬるりと、布が擦れる。摩擦でじくりと傷が痛み、喉奥から呻きが漏れる。血が香る。俺はここに居る。ちゃんと、ここに居る。
「っ……救急車、」
「っ、ダメ」
手のひらを汚す赤い滑りを感じた太一が低く呟き、安藤は瞬間生気を取り戻してそれを制した。ダメだ。ダメ。自分のこの一言で、彼は身動きが取れなくなる。
「ダメ……約束、して」
「っ、何を」
「あの子と……ユカちゃんと、もう会わないで」
腹に触れたままの太一の手に、自身の手をひたりと触れる。暖かい。暖かくて、優しい手。馬鹿な太一。可哀想な太一。お前に鎖をかけているのは俺なのに。気づきもせずにそばに居続ける。そうして何度でも、こうして俺を探してくれる。
ぎりりと、太一が唇を噛み締めた。小さく動いた唇から、そんなこと、と呻くような呟きが漏れた。
「……そんなんいつでも約束してやる!だから、そんなことのために一々怪我してくんなよバカ!だから嫌なんだ!だから嫌なんだよ!俺を殴ればいいだろ!俺にむかついたんなら、俺を殴ればいいだろ!なんでこう言うやり方しか出来ないんだバカ!」
押し殺した声で、太一が怒鳴る。降り注ぐ声が心地いい。怒っている?呆れている?その内実は分からないけれど、でも、そこには感情がある。自分に向けられる感情が、心地いい。目を閉じる。眠い。腹に触れる手が暖かくて、気持ちが良い。
馬鹿にバカって、言われたくないなぁ。
そう言ったつもりだったのだけれど、声になったのかは分からなかった。
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