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 知り合いの医師に連絡し状況説明をすると、出血箇所を圧迫するよう指示され、とりあえず、来ていたTシャツを丸めて押さえた。義崇の目は閉じていて、呼吸は浅く、速い。その額に浮いた冷や汗を眺めながら、最悪だと、そう思う。最近の中じゃ一番悪い。彼の着ているジャケットのポケットには、携帯と、刃先が剥き出しの果物ナイフが入っており、その柄には、布か何かで拭ったような跡があった。多分、刺させたのだ。ユカを見つけ出して、これで自分を刺すように言ったのだと黒木は推理し、その行為のおぞましさに身を震わせた。これはもう病だと、そう思う。義崇は病気なのだ。他人を試す。昔はもう少し分かりやすかった。痛めつけて、突き放して、それでも追ってくるかを試す。そう言うやり方だった。それが一体、どこで違えたのか。いつからか、相手が自分を壊すよう仕向けるようになった。思い通りにならないことがあると、壊れて帰ってくる。こんな風に。マシな時は、例えば、ぶっ倒れるまで飲食を拒否するとか、おかしくなるまで眠らないとか、相手を挑発して殴らせるとか。そう言うこと。義崇は事あるごとに繰り返す。何度も、何度も、何度も。試されている。分かっている。  ー……俺は、ここにいる?  最初にクスリを始めたのは義崇の方だった。ベッドの上でぐずぐずになってデカい図体を丸め、さめざめと泣く男は事あるごとにそう問い、いるよと頭を撫でてやると、良かったと呟いて眠りに落ちた。一人では眠れないと言う義崇の抱き枕になって、もう10年以上が経った。  バカだなと、ため息に乗せて呟く。こんな風に試さなくたって、お前の欲しい言葉は幾らだってやれるのに。お前はここにいるよ。お前は大丈夫だよ。俺はお前に居なくなられたら悲しい。俺にとって、お前が一番大事。幾らだって、言ってやるのに。欲しがることはいけないことだと思っているから、欲しいものを素直に欲しいと言えない。だからこうやって試す以外ない。傷ついて見せて、黒木が助けるかを試す。言葉ではなく行為で示せと、彼は縋る。ダメな太一、バカな太一、一人では何も出来ない太一、俺が居なければ生きられない太一。義崇の望みは叶えてきた。この男の望むようにしてきた。それなのに、こいつはいつまで経っても信じない。信じようとしない。それが歯痒い。女を抱くのもクスリをやるのも殴るのも、義崇が望むからそうしている。傷つけるのが俺であるうちは、この男は生き続けられる。それなのに、そうしていても結局、こいつはこうやって逃げていこうとする。ままならないこの世から、逃亡しようとする。  「……いい加減信じてよ」  押し付けたTシャツまで、滲み出す赤が侵食する。お前はずるいと、そう思う。傷つく方は楽でいい。お前はきっと、いつか死ぬ。俺を試して死んでゆく。俺はお前を見捨てることなんてできないから、お前が死ぬのは俺の腕の中だ。お前はいい。欲しいものを確かめて死ねるお前はいい。じゃあ俺は?お前を生かすために生きている俺はどうなる。守ろうとしたものが失われるのを見せつけられるばかりの俺はどうなる?  いっそこの手で殺してしまおうか。  何度も考えた。何度も、何度も。だってこいつは死にたがっている。俺がいるから生きているだけで、義崇自身はもうとっくに、生きる理由など失っている。だからこそ、愛を確かめるために死ねるのだ。最近は、クスリでトぶたび声がする。こいつの事を思うなら、殺してやる方がいい。黒木の想いを疑う不実を責め立てながら、拳を打ちつけ嬲り殺してやればいい。俺が殺してやることは、彼にとっては至高の喜びに違いない。けれども、思い切れない。だからこうして、中途半端なままでいる。結局。結局のところ。黒木は義崇を失いたくないのだ。幼い頃、黒木を救い出してくれた小さなヒーロー。誰も彼もが離れていく中、ただ一人、黒木に執着する男。俺は生きたい。けれどもきっと、お前がいなければ生きてはいけない。だから結局、死にたいお前を、俺はこの世に繋ぎ続ける。痛みでしか存在証明できないお前に、死なない痛みを与え続ける。死んだ目をしたお前に、拳を叩き込んで目覚めさせる。  本当は、甘く優しい幸せを教えたいのに。救い続けるためには、加害者であり続ける以外ない。傷つく方は楽でいい。傷つける痛みを、知らずに済むから。相手だけを悪者にして、自分はただ、裏切られた被害者でいればいい。そうして傷んだ身体を晒してほくそ笑む。  義崇はクズだ。  突然、強い風が抜けた。ビルの狭間を抜けた風がひゅーと鳴き、ざわりと木々が騒めく。顔を上げると、墨色の空に、半分の月がぽっかりと浮かんでいた。台風上陸が近いと、今朝のニュースでやっていた。湿り気を含んだ夜気を吸い込むと、濃い血の香りに混じって雨の匂いが微かにし、明日は雨かとそう思った。つと視線を落とし、血の気の引いた男の顔をもう一度見つめる。首を締められたのは悪くなかったと、ちらりと思う。生きていたい、死にたくはない。けれども。俺に加虐を強要する義崇が、俺を殺して咽び泣く様を想像するのは、胸の空くような快感だった。  もし雨が降ったら、と黒木は思う。明日は一日、家にいよう。そうして、きっと一つも動けないこのバカに、肉を食わせよう。スーパーで売っている、一番いいやつ。料理は苦手だけれど、焼いてタレをかければなんだって旨い。それから少し話をして、怪我にかこつけて目一杯優しくしてやろう。アルコールはダメだから、こいつの好きなフルーツポンチを作ってやろう。好きだと聞いたのはずっと昔の話だけれど、多分今でも好きだと思う。かっこつけなくせに、こいつは意外と子供舌だから。あとは、なんだろう?見損ねたと言っていた映画を見るのもいい。そういえば、子供の頃義崇が気に入っていた漫画が完結したと聞いたから、それも全巻揃えておこう。なににしろ、どうせ数日は動けない。  明日が来たら。  明日は、今日とは違う一日にしよう。
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