三話 バンジージャンプ

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三話 バンジージャンプ

 やがて、この会社に入社して8年が経とうとしていたが、私の状況はほとんど変わっていなかった。出勤日を減らされお給料が減っても、貯金を切り崩して本格的に夜学の洋裁学校へ通うほどの強い気持ちがあった。学校の課題の他に会社での縫製物を独学で練習に練習を重ね、自分で技術を習得するものの、ほぼ過労で倒れそうな毎日。ミシンメーカーの門を叩き、料金を支払い、さまざまな種類のミシンの扱い方を習得した。 がむしゃらに学び続けて、気がついたら、自分の中に自信が宿っていた。パターンメイキングも、縫製も、最初から上手に出来なかったけれど、納得いくまで練習し続けた結果、上手に縫える自信がついていた。誰の力も借りずに、自分の力で手に入れた技術だった。 技術を学び、積み上げても、何一つ評価をしないことはもちろんのこと、私が出来るようになった姿を見せれば、周りから物言わぬ嫌がらせが始まる。8年経ってもアシスタントのまま。頭を少しでも出せば押し込められる、そんな状況だった。それどころか、 「あなには無理よ。才能がない。」 これは社長から言われた言葉。その言葉は私の胸には届かなかった。そして、その言葉通りにならなかった。当たり前だ、誰だって、何だって、出来ないことなどないのだ。一体この会社はなんなんだ。本当に成長しにくいところだと心底思った。  この小さな会社には、パターンメイキングをする専門にするスタッフたちが二人いた。この2人は、パターンメイキング以外何もしない人たちだった。床も掃除しない、ガラス戸も拭かない、排水溝は掃除しない、郵便受けは見ない、お客様へのお茶はほぼ出さない、会社の敷地内の自分の通る道に大きなゴミが落ちていても、拾うことすらしない。何を聞いても「私しらない。聞いてない」と言う。自分たちが会社のことをすべて取り仕切っている訳ではなく、指示を仰ぐ立場で、ずいぶんと偉そうにしていた。 こんな環境が、体と心に与える悪い影響は大きかった。心ない言葉や振る舞いの数々、働きたいのに働けないような状況は本当に体に良くなかった。精神に与える悪い影響を、身を持って経験したのだ。真っ白な気持ちで社長に仕えてきたけれど、すでにそんな気持ちは失せていた。 そんな中、父親が体調をくずした。父が二度入院した。無事に退院したものの、父と父をサポートする母のことを考えると、私が助けなければと思うようになった。私の状況も急激に変わりつつあったのだ。この会社に入社したことを後悔した。お金さえあれば、サポートできる部分もあるのに、それが出来なかったことを情けなく思った。そして、これを機に湧き上がってきた気持ち、それは、サラリーマンを辞め、在宅で出来る仕事をしていこうと言う気持ちだった。私に何が出来るだろうか。パソコンが必要になるだろう、そう思った。衣類製作は大好きだった。実践さえ積めばもっと出来るようになっていくことは、自分でわかっていたが、今の会社では叶いそうにない。自分の力で叶えていくことはきっと出来ると自分を信じてはいるけれど、その時が来るのは今ではないようだ。 さらに、時を同じくして、未知のウイルスが全世界を襲いかかった。未知のウイルスはとても恐ろしかった。ウイルスに対する薬はなく、感染すると様態が急変して死に至るケースが続々と出ている。いつどこで感染するかわからない怖さ、すれ違う誰か、どこの誰がウイルスを持っているかわからない怖さ、自分が感染しているかわからない怖さ、知らないうちに誰かにうつしているかもしれない怖さ。見えない敵と戦うという怖さを初めて知った。人の密集する所は絶対に行ってはいけない、町から人が消え、レジャーを楽しむ人は誰もいなくなり、まるで戦後の世界を見ている様だった。毎日の生活用品を買いに行く行為すら、ウイルスに感染する恐れがある。 ウイルスは少しずつ増え始め、やがて爆発的に増え始め世界を恐怖のどん底に突き落とす。自分にも突然死が訪れるかもしれない、それは人事ではなかった。 働くことも制限され、出勤はせず、世の中は自宅で仕事をするスタイルに移り始めた。職を失う人もいた。ウイルス蔓延による、世の中の厳しい状況に直面させられる。 まさに、私にとって、ターニングポイントだった。働き方を変える大きな分岐点だった。父の入院を機に、ウイルスの襲来より前に考えていた在宅ワークへと、自分の考える通りに進むべき時だと確信した。長い間踏みとどまって一歩を踏み出せずにいたのは、やはりやっていけるかどうかの不安があったから。先延ばしにしていたけれど、否応なしにスタートさせる機会になったとのだ。新しくパソコンを購入したのは、そんなサラリーマン生活にさよならを告げようとしていた頃だった。未知のウイルス襲来が偶然重なり、サラリーマン生活への別れがよりスムーズに、後ろを振り返ることもなく、未練もなく独立へと、新しい世界へ飛び降りた感覚を覚えている。バンジージャンプだ。
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