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「制服デートがしたい」
茉凛があまりにも深刻そうに眉をひそめながら言うので、私は聞き違いかと思って「え、なに?」と反射的に聞き返していた。
「だから、制服デートがしたいの」
今度ははっきりと聞こえた。
「それって、あれ?制服のまま、放課後にどこかのお店に寄ったりぶらぶらしたり、学生のうちしか体験できない、あの制服デート?」
「そう、あの、制服デート」
満足げに、茉凛がうなずく。
「そう。……すればいいんじゃない?」
私が軽く答えると、茉凛は目を大きく見開き、目の前のこたつ机をぱぁんと叩いた。机上に置かれたガラスコップに入ったオレンジジュースが、かすかに波立つ。
「あんなダサい制服で、できるわけないでしょーが!」
茉凛が声を荒げた。ほのかに頬を上気させ、顔に怒りをにじませている。
あぁ、なるほど。
茉凛の言いたいことが、ようやくわかった。
「どうぞ」
「え?」
「制服、貸してほしいってことでしょ?」
私は、地元近くの公立高校に通っている。特に良くも悪くもない公立高校だが、制服だけは可愛かった。少し暗めの赤をベースにしたチェック柄のスカートに、同じ柄のリボン。白いブラウスに、紺のブレザー、そして紺のソックス。特にオリジナリティはないが、可愛い。
一方、茉凛は都内の中高一貫の私立女子高校だ。いわゆるお嬢様学校で、制服は古風だ(いい風に言ってみた)。紺のベストとスカートがつながっているデザイン…つまり、ジャンパースカートになっている。それに、同じ紺色のブレザーと、丸襟の白いブラウス、胸元には細い紺色のリボンが結ばれている(自分で蝶結びにするのだが、伸ばすとかなり長い紐だ。「縄跳びできそう」と、茉凛が挑戦しようとしていたことがある。さすがにできなかった)。
しかも、校則が厳しいらしい。スカートは、ひざ下5センチはないとだめ(長くて動きづらくないか?)。ブラウスは、第一ボタンまできっちり留めていないとだめ(息苦しくないか?)。学校指定の靴下でないとだめ(茉凛曰く、「中途半端な長さで、すぐゴムが緩くなる不良品」とのこと)。
茉凛が、じっと見つめてくる。それから、ふわっと笑った。先ほどまであんな激しい怒りをむき出しにしていたとは思えないくらい、愛らしい笑みだった。
「さすが、季穂。話が早いわぁ」
「長い付き合いだからね。たしか、前着てたよね?インスタに載せるとか言って」
「うん!サイズはばっちり!じゃ、金曜の放課後ね!池袋だから」
「はいはい。そしたら、着替え持ってかなきゃ。汚さないでよ?土曜か日曜に返しに来てね」
「あ、着替えはいいよ。うちの制服貸すし」
「はい?」
思わず、高い声が出た。
それでは、本当に制服を「交換」することになる。別に、私は茉凛の制服を着たいとは思わない(ダサいから、とかではなく。着る必要がないからである。断じて、ダサいからではない)。
「だって、そしたら自分の脱いだ制服持ち歩かなきゃならないじゃん?重いもん。それに、季穂には私のデートを見守ってほしいの」
「はい?」
思わず、二回目。
「ほら、あたし、何回か彼氏できたことあるけど、なんか変な奴ばっかなんだよね。すぐ別れちゃったし。だから、ぜひ季穂に見極めてほしいと思って。あたしのことも分かってるし、冷静に分析してくれそうだから」
満面の笑顔の茉凛。それに反比例して、私の顔はどんどん醜く歪んでいるに違いない。鏡を見なくても、それくらい分かる。
「なにそれ。変な奴って…たしかに、ちょっと束縛きつそうだったり、ストーカー体質だったり個性豊かだったけど、その失敗を糧に男を見る目が養えたとか言ってなかった?」
「それはそうだけど、不安じゃん?」
「ってか、彼氏いたことないのに見極められないよ」
「大丈夫だよー季穂なら!ね、お願い~」
胸の辺りで両手を絡め、祈りのポーズで茉凛が迫ってくる。いつの間にか、壁際まで追い詰められていた。
が、私も簡単に折れるわけにはいかない。
「いやいやいや。しかも、何?一人で茉凛たちのデートを陰ながら見張れっての?怪しすぎでしょ」
「あ、それなら、心配無用」
茉凛が、立ち上がった。私の腕をつかみながら。私も、自動的に立ち上がることになった。
部屋から廊下に出て、隣の部屋のドアをノックした。返事を待たず、
「はいるよー」
とドアを開いた(ノックの意味は?)。
「うぉ、なに?」
ベッドに寝そべり雑誌を読んでいた睦樹は、驚いた様子で体を持ち上げた。が、怒っている風ではない。おそらく、慣れているのだろう。
「今週金曜、池袋で季穂とデートね」
睦樹が、視線を泳がせ、首を傾けた。
「あ、そ。いってらっしゃい」
私と茉凛がデートと称して出かけると思ったらしい(まぁ、主語ないしな…)。
「違うよ、あんたが、季穂とデート。あたしのデートを尾行するの」
「…全然わからん」
睦樹が、私に視線を向けてきた。「姉の言葉が理解不能なので、通訳をお願いします」と目が言っていた。
「あのねー…」
私が先ほどの流れを簡単に説明すると、理解の早い睦樹は「はぁなるほど」とすぐにうなずいた。
「話は分かった。でも、かなりメンドクセー」
きっぱり言い切った。さすが弟である。イトコの私より容赦がない。心の中で声援を送る。ここで、睦樹が断れば、私一人ではさすがに行かなくて済むだろう。
「なんでよぉ。姉の幸せが願えないのか!」
「んー…」
睦樹が、ちらりと私に視線を送ってきた。それから、しばらく視線を泳がせる。
「あとで、かかった代金、清算してくれるならいいよ」
「つまり?」
「デート見張るってことは、俺らもご飯とか食べるじゃん?そのお金とかを茉凛が払ってくれるならいいよ。後払いで」
「え?いいの?」
私と茉凛の声が重なった。茉凛はともかく、私はつい声に出ていた、というのが正しい。まさか、了承すると思わなかったからだ。
「もちろんだとも!あ、でもあんまり高いもの食べたりしないでよ?あたしもそんなお小遣いないんだから」
「へいへい。んじゃ、金曜ね。何時くらい?」
「四時半に待ち合わせだから、その前に季穂には会って、トイレで着替えて――」
二人が、さっさと段取りを決めていく。私は口をはさむ暇もなく、二人の会話をどこか遠くに感じながら、現実逃避をしたくなって窓の外を見ていた。
淡いオレンジ色に染まった雲が、美しい。けれど、その美しさが、なぜか無償に腹立たしかった。
いけふくろうの前には、いつでも人だかりができている。待ち合わせの人も多いが、駅から出て行く人波と、駅に入って来る人波もある。つまり、人がすごい。待ち合わせ場所だが、人が多すぎて見つけるのが大変だった。
「あ、季穂、こっちー」
すでに待っていた茉凛が、分かりやすいよう腕を高く上げて振っている。
「ごめん、委員会の仕事が急に入っちゃって」
「ううんーまだ時間あるし、大丈夫。睦樹もまだ来てないから。さ!着替えるよ!」
茉凛に手を取られ、パルコの中へと導かれる。エスカレーターで登り、すいていそうなトイレに駆け込む。
「っていうか、二人で一緒に入るの?怪しまれない?」
「大丈夫でしょ、都会の人間は他人なんて気にしないから」
小声で聞いた私に、茉凛は自信満々な様子で言った。どこからくるのだろう、その自信は。
仕方ないので、何食わぬ顔で、茉凛と一緒に一つのトイレに入った。後ろに人が並んでいる気配があったが、振り向かないようにした。
「さ、着替えよ。うう、狭い…じゃ、あたしのスカート渡すね」
個室に二人は、狭い。便器を避けながら、茉凛が手慣れた様子でスカートを上から脱ぐ。ジャンパースカートなので、それを脱ぐとブラウスと、スカートの下に履いているスパッツと白いソックスだけになる。なんとも言えない、ちょっと間抜けな恰好だ。
「ほい、季穂もちょうだい。あ、ソックスはいいよ。さすがに交換しづらいっしょ?黒ソックス持ってきたし。季穂には、洗濯したての白ソックス持ってきたよ」
「はぁい、どうも」
靴下はそのままでもいいか、と思ったが、どうも紺ソックスのままだとバランスが悪そうだ(スカートの長さとも合わないし)。仕方ないので、茉凛から渡された白ソックスに履き替える。
狭い中、お互いうごうごと動いて、なんとか着替え終えた。二十分くらいかかってしまった。
「リボンとかは、外で直そ」
茉凛が、そっと個室のドアを開けた。
「あ、よかった、誰も待ってない。今のうち出よう」
先ほどは自信満々だったが、やはり茉凛も人目は気になっていたらしい。そそくさと、二人で個室から出る。
「季穂、こっち」
そのままトイレからも出るのかと思ったが、茉凛が手洗い場で止まった。
「ちょっと、髪と化粧直すから待ってて」
茉凛が、真剣な顔で鏡に映っている。カバンから(カバンはよくある肩にかけるスクールバッグで割と似ていたし、荷物の入れ替えが面倒だったので、交換はしなかった)化粧ポーチを取り出し、ファンデーションを薄く塗り始めた。
季穂は、化粧をしていない。手持無沙汰だったが、着替えがちゃんとできているかチェックをすることにした。髪…は、着替えたせいで少し乱れていたので、ハーフアップに結び直す。それから、リボンも少し曲がっていた。簡単に直す。
横目で見ると、茉凛は色付きリップを塗っている。まだ時間がかかりそうなので、場所を移動してトイレの出口で待つことにした。
ちょうど出口付近に全身が映る鏡があった。
「わぁ…」
思わず、小さく呟いていた。
初めて着る茉凛の制服は、紺ばかりで地味だ。だけれど、やはり「お嬢様感」がすごい。しかも、私は茉凛よりも地味だから、似合ってしまう。
嬉しいような、悲しいような。
あれだけ茉凛が「ダサい!」と豪語している制服が似合う私は、つまりダサいということだろう。複雑な心境だった。
「あ、季穂。ごめんね、お待たせ」
ようやく身だしなみを整えた茉凛が出てきた。それから、まじまじと、私を上から下まで見渡した。
「おぉ…なかなかいいね。すごいお嬢様な感じ」
長い付き合いだからか、それとも血を分けたイトコだからなのか、はたまたこの制服には皆同じ印象を受けてしまうのか、私と同じ感想を抱いたらしい。
「それ、褒めてんの?」
「褒めてるよーいいじゃん。ね、あたしはどう?」
茉凛が、両腕を広げ季穂の真正面に立った。
素直に、かわいいと思った。派手な茉凛には、正直私の制服の方がしっくりくる。髪も、高めのポニーテールにしており、活発そうな雰囲気があった。
「うん、かわいい。ポニテもいいね」
「まじで?やったぜ」
「でも、化粧が濃い」
「え?!薄めにしたのに!」
「冗談、冗談。いいと思うよ」
「ほんとか~?季穂、信じるからね!」
楽しそうに、茉凛が笑った。
「あ、睦樹、来たみたい」
茉凛が、スマホを確認している。いけふくろうの方へ戻ると、人ごみの中に睦樹を発見し、合流した。
睦樹も学校帰りなので、無論制服だ。白いワイシャツに、濃いグレイのチェックのネクタイ。それと同じ柄のパンツ。それに、大きめの黒いリュックを背負っている。高校生になってから制服姿をあまり見る機会がなかったので、新鮮だった。
「これはまた…」
睦樹が、私と茉凛を交互に見つめた。
「ふふふ、いい感じでしょ?」
茉凛が得意げに胸を反らせた。睦樹は、「んー」と唸り、
「なんつーか、違和感」
「えぇ?似合ってるでしょ?あ、そろそろ待ち合わせ時間だ」
「そうなの?じゃ、私たち離れた方がいいんじゃない?」
「うん、ごめんね!今日はよろしくお願いしますっ」
大きく頭を下げてから、茉凛がさりげなく距離を置いた。一人で待っている風に、スマホに顔を向けている。
「まず、映画観に行く予定だっけ。で、そのあとご飯食べて…」
スマホに、茉凛の今日の予定は送ってもらっている。そのラインメッセージを確認していると、睦樹がかがんでそれを覗き込んできた。
「ご飯て、デニーズとかサイゼとかかな。で、解散。じゃあ、それまで見失いようにくっついていってーー」
顔を上げると、思った以上に睦樹の顔が近くにあった。しかも、睦樹はスマホではなくて私の方を見ていたらしく、ばっちりと目が合った。
「どうか…した?」
驚いて少し上ずった声が出た。
「いや、別に。…あ」
睦樹は背筋を伸ばし、顔を背けた。ちょうどその顔は、茉凛のいる方向を向いていた。
茉凛が、知らない男と話している。顔はよく見えないが、細身で背が高そうだ。白いワイシャツに、黒いパンツ。どこの制服だろう。肩に、私が持っているのと似ているスクールバッグをかけている。髪型は、短かすぎず、長すぎず。染めているのか、少し茶色く見える。
「あ、動く。じゃ、俺らも行こっか」
睦樹が、素早く歩き出した。私も、慌てて睦樹の後を追う。
サンシャイン通りの映画館に行くようだ。観る予定の映画は、確か青春ラブコメ。
「あれ?チケット買ってあるのかな?」
チケット売り場には目もくれず、二人はさっさと映画館の中へ進んでいった。ちら、と茉凛が振り向いたが、目は合わなかった。
「スマホで予約してたんじゃん?」
「そっか、準備いいね」
「じゃ、ちょっと待ってよっか」
「待つって、何を?」
「席がどこかわかんないから。茉凛の座席わかったら、ラインくるはず」
「あぁ、なるほど。で、近くの席座って見張るんだね。すごいねー睦樹、探偵向いてそう」
この状況が少し楽しくなってきた。睦樹と一緒なら、なんとかなりそうだという安心感もあった。
睦樹がスマホをいじりながら、ふぅ、と小さく息を吐いた。
「あ、ライン来た?」
今度は、睦樹のスマホを私が覗く。ラインマークが画面に出ていた。が、睦樹はすぐにスマホを私から見えないよう、自分の顔近くへと移動させた。
「あー…うん、来た。季穂にも来てるっしょ。じゃ、行こう」
と、足早に歩き始めた。なんだろう、さっきから。なんだか余所余所しいというか、不機嫌というか…普段の睦樹と違う気がした。
だが、「普段の睦樹ってどうだっけ?」という疑問も湧いてきた。小学生まではよく一緒に遊んでいたが、中学に入ると、一気にそういう機会もなくなっていった。そういえば、二人で出かけるなんて(茉凛のデートの監視とはいえ)いつぶりだろう。
茉凛との関係は昔からほとんど変わらないけれど、睦樹とは変わってしまったのだろうか。今でも、仲の良いイトコだと思っているのは、私だけなのかもしれない。
「季穂?どうした?」
ぼんやり立ちすくんでいた私に気づき、睦樹が振り返った。我に返り、小走りで睦樹のそばに駆け寄る。
「近くの席、空いてるといいね」
考えても仕方ない。今は、茉凛のデートに集中しよう。
茉凛たちの席は、ちょうど見やすい映画館の中央の席だった。映画は公開から日が経っているためそこまで混んではおらず、二人の斜め後ろが空いていた。
「じゃ、ここでいいか」
「うん」
睦樹が、慣れた様子でチケットを注文してくれる。お金も払ってくれたようだ。
「あ、お金、払うよ」
「いいよ、どうせ茉凛に払ってもらうし。俺が全部建て替えとくよ」
「そっか…ありがとう」
「いーえ。こちらこそ、アホな姉に付き合ってくれてありがとう」
睦樹が意地悪そうに笑った。
この表情は、知っている。小さい頃、一緒にイタズラを考えているとき、睦樹はこういう表情をしていた。
「…何?」
まじまじと睦樹の顔を見つめてしまっていたらしい。怪訝そうに聞き返された。
「ううん、なんでも。飲み物とか買う?あ、あれ安いかな?」
映画館の中に入り、売店を通る。映画館というのは、どうしてこうもポップコーンの香りがするのだろう。特にポップコーン好きでなくとも、そそられてしまう。
しかも、もう五時を過ぎているので、健全な女子高生である私は十分お腹もすいていた。睦樹も同じようで、二人で売店に並んだ。
セットで安かったので、大きなカップに入ったポップコーンと、飲み物二つの「カップルセットM」を注文した。大きなトレー一つにのっているのを、睦樹が軽々と運んでくれた。
「席、ここか。よっと」
睦樹が席を確認して、私との間にそのトレーを置いてくれた。
前を見ると、二人ともいない。トイレだろうか。それとも、売店やグッズショップですれ違ったのだろうか。
睦樹に断って、私も映画が始まる前にトイレへ行く。もしかすると、茉凛に会うかもしれない。トイレなら、こっそり相手の様子を聞ける可能性もあった。
時間帯と映画の内容のせいか、同い年くらいの制服を着た学生が数人トイレにいた。が、茉凛の姿はない。また、入れ違いになってしまったようだ。
席に戻ると、茉凛と例の彼氏候補は席に着いていた。目立たぬよう、何食わぬ顔で自分の席に座る。
「俺も、トイレ行ってくる」
「うん、いってらっしゃい」
睦樹がトイレへ立つ。私は、スマホをいじる振りをしながら、茉凛たちの声に耳を澄ませた。
「——で、そのあと先生にめっちゃ怒られてさぁ」
茉凛が、テンション高めに話している。彼氏候補(そういえば、名前聞いてなかった…たしか、友達との合コンで会ったとかだっけ)は、こちらからは顔が見えないが、うんうん、とうなずいている。時折、声を出して笑いながら。
茉凛も楽しそうだし、良い雰囲気に見える。無理に話に割って入るでもなく、けれど相手に任せっきりでもなく。ほんの少しの間しか見ていないが、彼は聞き上手に思えた。
ふと、茉凛と目が合った。軽く目で合図を送られた。「よろしくね」と言いたげだ。私も「わかったから、バレないようにね」と目と首の動きで示す(長い付き合いだから、なんとなく分かるのだ。不思議である)。
睦樹が戻ってきた。すると、まもなく映画が始まるようで、照明が薄暗くなった。
映画のCMと映画泥棒のCM(いや、注意喚起?)が数分間流れ、いよいよ映画が始まる。
映画を観ながら、「あれ、でも映画中ってそんなおしゃべりしないから、見張ってる必要あるか?」と思いながら、映画に気を取られつつ、時折思い出したように斜め前に座る二人の様子を窺った。
ん?
映画上映中は暗いので、二人の様子は、画面が明るくなったときにシルエットが見えるくらいだ。そのシルエットに、違和感を覚えた。先ほどまではなかった、違和感だ。
んん?何?何だ?
じっと、茉凛の隣に座る彼に目を凝らす。顔は見えない。シルエットだけ。しかも、頭が少し見えるだけ。でも、おかしかった。見慣れないものが、頭の上に見えた。
「え」
思わず、声を上げていた。が、ちょうど騒がしいシーンだったので私の声は、映画の音にうまくかき消された。
耳、がある。頭の上に、だ。シルエットだけだが、そう、猫のような、三角の。例えるなら、形は異なるが、某テーマパークのネズミのキャラクターの丸っこい耳のカチューシャを付けると、こんな感じになる。
え、どういうこと?いつのまに、あんなファンシーなものつけたの、この人。もしかして、この映画で出てくるとか?そのグッズをつけたとか?
?が脳内で渦巻く。混乱しつつ、隣にいる睦樹の二の腕あたりを掴んでいた。
「む、つ、き」
顔を寄せ、小声で睦樹に助けを求めた。
驚いた様子で、睦樹がびくっと肩を揺らした。
「…どした?」
声を潜める。睦樹も、顔を寄せてきた。
あれ、なんかこれって、イチャついてるカップルみたい?
自分から顔を近づけたくせに恥ずかしくなって、席に座り直す振りをして少し距離を取った。顔が熱くなって、鼓動がうるさい。
「ごめん、いきなり…あのさ、彼の方、見える?頭らへん」
平静を装い、睦樹に耳打ちする。睦樹が、視線を斜め前へ動かした。
「うん。シルエットなら見えるけど」
「あれ、何?さっきはつけてなかったのに」
「あれって?」
「え、だから、あの…猫耳?みたいなの」
「え?」
画面がまた明るくなったので、睦樹の表情がうっすら見えた。ぽかんと口を開け、首を少し傾けている。完全に、「わけわからん」という表情だった。嘘をついているようには見えない。というか、睦樹がここで嘘を吐く意味もない。
「ごめん…あとで、詳しく話すね」
映画中では、話しづらい。周囲の視線も気になる。私はいったん口を閉じ、映画を観ることにした。睦樹も、不思議そうに前へ向き直る。
が、無論、彼のことが気になって気になって映画の内容なんて少しも頭に入ってこない。
何度も何度も、彼の頭あたりに目を凝らす。いや、あるって。どう見てもあるって。私、高校に入って視力落ちたけど、いや、絶対あるって。耳、あるって!
映画が終わるまで、とても長く思えた。正気を保つため、傍らにあるポップコーンを絶えず口に運ぶ。ようやくエンディングの曲と俳優名が流れ始め、無意識に大きく息を吐いていた。
人が、ばらばらと席を立って館内から出て行く。まだ照明は、薄暗い。
すると、斜め前の茉凛と彼が、動き始めた。エンドロールを最後まで観ず、出て行くらしい。
「早いな、あいつら。俺らも、行こうか」
睦樹が、とん、と肩を軽くつついてきた。照明がだんだんと明るくなってくる。
「季穂、大丈夫?」
睦樹が、心配そうに顔を覗いてきた。先ほどの奇行(いや、ちゃんと理由あるけどね!)を、心配してくれているようだ。
「うん…」
深呼吸して、立ち上がる。もう、茉凛と彼の姿は見えない。いなくなると、「あれ、やっぱ私の幻覚?」と思えてくる。
「ごめんね、行こう。早く追っかけないとね」
私の席の方が出口に近かったので、慌てて立ち上がる。と、ぐい、とスカートが引っ張られ、バランスを崩した。
「わ…」
「っと」
ふらついた私を、先に立っていた睦樹が、かがんで支えてくれた。両肩を、力強く掴まれる。
睦樹の手、熱い。
睦樹の熱が、ブラウス越しに伝わってきた。が、すぐに、自分の体温と混ざり合って分からなくなる。
「あ…ごめん。スカート長くて、裾が席に引っかかったみたい」
慌てて体勢を立て直し、引っかかったスカートを引っ張る。すぐに引っかかりは解けた。睦樹の手も、いつの間にか離れていた。
「大丈夫?そういや茉凛も、よく階段で踏んで転びそうになってるよ。長すぎるのも大変だな」
睦樹が、ポップコーンののっていたトレーを抱えながら、ちょっと笑ってくれた。なぜだかすごくほっとした。
「ほんと、そうだね。ありがと」
片づけをして、映画館を出る。すっかり、茉凛たちを見失っていた。
「何で、急いで出て行ったんだろうな。尾行できないじゃん」
言いながら、睦樹がスマホを操作する。茉凛に連絡を取ってくれているのだろう。
「あのさ、睦樹…さっきのことなんだけど」
「あぁ。映画中の。どうした?なんか、猫耳とかなんとか」
「う、うん…ごめん、私の見間違いだと思うんだけど……」
先ほどの猫耳事件(?)を睦樹に話す。睦樹は、眉間に皺を寄せ、目を瞬かせた。
「猫耳…」
低い声でつぶやく。
「やっぱ私の見間違いだよね。なんだろ、映画の映像となんかが被っちゃったのかな。変なこと言ってごめん」
「いや…でも、そんな見間違いあるか?確かに俺には見えなかったけど、そいつ、なんかあるのかもな」
「なんかって…?」
「わかんね。とりあえず、もうちょっと尾行してみよう。…あ」
睦樹が、スマホに指を這わせた。
「サイゼが満員だったから、適当に歩いて店探してるらしい。じゃあ、この辺通るかも…」
顔を上げ、睦樹が人ごみに目を凝らしている。私も同じように視線を泳がせ、茉凛の姿を探す。
…が、十数秒後、目に飛び込んできたのは茉凛の姿ではなく、あの猫耳だった。
「あぅ」
妙な声が出た。睦樹が振り向く。
「どした?あ、いた」
数メートル先を、猫耳が通過していった(無論隣に茉凛もいるのだが、もはや私は猫耳から目が離せない)。通過する瞬間、ぴくっと猫耳が動いた、気がした。
池袋はアニメショップもたくさんあるし、コスプレで歩いている人も多い。だから、猫耳くらいならさほど違和感はないかもしれない。…本当に猫耳をつけているだけならば。
「…猫耳、見えるか?」
睦樹が、小声で聞いてきた。私は、目で追いながら無言でうなずく。
「睦樹は、見えないの?」
「うん。フツーの髪型にしか見えない」
「うぅ…」
うなり声をあげつつ、二人の後を追う。
「なんか、霊感的なやつなのかな」
睦樹がぽつりとつぶやく。
「ほら、俺は見えないけど、季穂には見えるんだろ?霊感的な感じで、見えんのかなって」
「え?!でも、私オバケとか見えたことないし、見えたら困るんだけど。こわ…」
ホラーも怖い話も、絶対に見たくない。茉凛はそういうのが好きで、何度もホラー映画に誘われたことがあるけれど、断固拒否した。今後も拒否する意向である。テレビ番組でそういう系のも、絶対に見たくない。もし流れていたら、すぐに消す。
「いや、ユーレイとは違うけど、そういう第六感?的なのがあるのかもよ、季穂に」
つい、まじまじと睦樹の横顔を見ていた。茉凛とよく似た二重の瞳は、昔は丸く可愛らしい印象だったのに、いつの間にか切れ長で涼しげな印象だ。
「何?」
「や…睦樹、そういう超能力的なのとか、信じないと思ってたから…意外で」
「まぁ、あんま信じてないけど。でも、季穂が嘘つくと思えないし、そしたらそういうのもアリなのかなって」
「うん…ありがと」
睦樹が、ふっと笑った。それはもう、爽やかに。こいつモテそうだな、と思った。
「何でお礼?季穂って変に律儀というか、いいよね、そういうとこ」
デート尾行開始当初は不機嫌そうだったのが嘘みたいに、睦樹は昔と変わらず話してくれている。
「もしかして、映画の前、体調悪かった?」
「うん?悪くないけど」
「そう?無理してない?」
「いや、全然。何で?」
「だって、映画の前、なんていうか…余所余所しかったから。今はいつも通りなのに」
「あー…」
睦樹が、視線をしばらく泳がせた後、ちらりと私の方を横目で見てきた。それから、少し照れ臭そうに、視線をまた逸らせた。
「その恰好、見慣れないから、なんか違和感で。そんで、変な態度だったのかも」
「あぁ、これ。確かに…私も違和感満載だわ。地味だけど変に似合ってしっくりきてる気もするし。ダサいの似合うんだよね、私」
自嘲気味に言うと、睦樹は視線を逸らせたまま右手で首あたりをぽりぽり掻いて、
「そういうことじゃないんだけど」
「え?」
「あ、マック入っていった」
聞き返したのだが、茉凛たちに動きがあったので話は強制的に終わらせられてしまった。やや腑に落ちなかったが、とりあえず睦樹は体調不良でも不機嫌でもないようなので、良しとしよう。
しばらく、マックの外から茉凛たちがまた混雑で座れずに出てこないか、見張る。
「お、ラインきた。二階で座れたって」
「ほんと?じゃ、うちらも行こっか」
「うん。腹減った」
店内に入り、空席を確認するために二階へ上がる。さりげなく見渡すと、あの猫耳が目に入ってきた。
あぁ、やっぱり紛れなく、猫耳だ…。
改めて自分の目の錯覚ではないことを確認する。それから、空席を探す(いやね、もう何回も見てると、見慣れてきて冷静になったっていうね。慣れって怖いわぁ)。
二人席は空いていなかったので、窓際にあるカウンター席に座る。茉凛たちの会話は、かろうじて聞き取れるくらいの距離だ。
「じゃ、何がいい?俺買ってくるから、荷物よろしく」
「あ、ありがと…えっと、じゃあ、てりやきバーガーのセットで、飲み物は…オレンジジュースで」
特に冒険心がない私は、よく頼むメニューをお願いした。
「了解」
財布だけを持って、睦樹はさっさと行ってしまった。
なんだか、睦樹は慣れている感じだ。私と違って、デート経験があるのかもしれない。
スマホをいじりながら、そんなことを考えていた。すると、手元が狂い、スマホを思いきり床へ落してしまった。派手な音が鳴る。しかも、一メートル以上滑っていった。
やば。
慌てて拾おうと椅子から降りると、前に人影が現れた。私のスマホを、素早く床から拾い上げる。顔を上げてその人の顔を確認し、「ひ」と声を漏らしてしまった。
「大丈夫ですか?」
柔らかい声とともに、猫耳が、目前に迫っていた。
例の彼が、わざわざ席を立ち、しゃがみこんで私のスマホを拾ってくれていたのだ。心臓が跳ね上がりそうになる。
「あ…すみません……」
掠れた声が出る。なんとか、しぼりだした声だった。
ちら、と彼を見る。猫耳にばかり目を奪われていたが、真正面から見ると、なかなか整っていて、可愛らしい顔をしている。ジャニーズにでもいそうな雰囲気だ。猫耳も、もしただ単にカチューシャとしてつけているだけであるならば、許される顔立ちだった(まぁ、何のイベントでもなく街中でつけていたら、いくら可愛くてもドン引きだけれど)。
それに、猫耳以外は、普通の男の子に見えた(いや、猫耳だけで十分世にも奇妙な話だけどね)。
「ありがとうございます」
早口で言って、さっと立ち上がる。彼も立ち上がり、笑顔で「どういたしまして」と、席に戻った。横目で確認すると、茉凛が「あっちゃ~」と言いたげに半笑いしていた(いや、面白がるなよ…)。
数分後、睦樹が戻ってきた。
「おまたせ」
「うん…」
「…どうした?」
明らかに私の様子が変だったので、睦樹が小声で聞いてくる。
「もしかして、猫耳以外に変なところがあった?」
「いや、ごめん、大丈夫。猫耳は相変わらずだけど、それ以外は普通の好青年だと思います」
「そう?つか何で敬語?」
ハンバーガーの包みを開けながら、睦樹がちょっと笑った。
よく見ると、トレーにはハンバーガーが3つのっている。
「睦樹、二個も食べんの?」
「うん。腹減ったもん。ホントは四個くらい食いたいけど、後で茉凛に怒られそうだから我慢した」
「四個って!食べ過ぎ」
つい笑ってしまった。睦樹はきょとんとして、
「いや、普通に食べるって。同級生の男とか、そんくらい食べてない?」
「そうなの?私男子としゃべんないから知らないや。男兄弟もいないしなぁ」
「しゃべんないの?共学なのに」
睦樹は、茉凛と同じく中学受験をして、私立の中高一貫の男子高校に通っている。
「んーうちの学校、女子と男子の仲が悪いみたいよ、伝統的に。まぁ、仲良さげな人たちもいるけど、私は女子同士でばっかりいるから、用事がなきゃしゃべんないね」
「じゃ、彼氏とかいないの?好きな人は?」
「いや、まずしゃべってないから…そりゃいないよね」
なんだか、睦樹がぐいぐい質問してくる。珍しい。そんなに共学に興味があるのだろうか。
「そっか」
一言つぶやいて、睦樹が大きな一口でハンバーガーをかみしめた。おいしかったのか、嬉しそうに口元がほころんでいる。
「まぁ、私の場合だから、共学で恋愛を楽しんでいる子たちももちろんいるよ」
と、付け加えたが、ハンバーガーに夢中であまり聞いていない様子なので、私も食べることにした。
食べながら、茉凛たちの会話に耳を澄ます。
「そういえばこの前友達が―――」
「何それ。ヤバいねーうける。茉凛ちゃん、ホントおもしろい」
茉凛が取り留めなくしゃべり、彼が楽しそうに笑う。なんて楽しげで幸せそうなカップルなのだろう。猫耳さえなければ「良い人っぽいな。うまくいってよかった」なんて言って、もう帰れるのに。
しばらくの間、二人の会話に聞き耳を立てていた。
気が付くと、睦樹はすでにバーガー二つを食べ終え、ポテトもほぼ平らげていた。
「早っ。ちゃんとかんだ?」
「季穂が遅いんだよ」
睦樹は、茉凛たちの会話を聞いているのかいないのか、食事を終えてスマホをいじっている。それを横目に、私も急いで食べ進める。
滞在時間は、三十分くらいだっただろうか。食事を終え、会話もひと段落した茉凛たちは、席を立った。
ごみを捨て終え、階段で降りていく後ろ姿を見送ってから、私と睦樹も片づけをして階段を足早に降りた。
店を出て、茉凛たちを探す。ゆったりと話しながら歩いている猫耳を見つけた(茉凛よりも先に、どうしても彼を見つけてしまう)。
「もう帰るのかな?」
「んーでも、駅とは違くないか?」
睦樹の言う通り、まだぶらぶら歩いている感じで、駅へ帰ろうとはしていない様子だ。
距離を保ちつつ後を追う。すると、しばらくして、二人は小さな公園に入っていった。
外から様子を覗くと、ベンチに座る二人の後ろ姿が見えた。
「何してんのかな」
「普通におしゃべりじゃない?」
「え、それならさっきのマックでよくね?」
「歩きながらとか、場所を変えて話すのも楽しいんだよ」
「んー…わからん」
睦樹が怪訝そうに見つめている。私も、正直よくわからないが、とりあえず知った風に言ってみた。
バレないように、距離を置いて木陰から覗いているので、会話は聞こえてこない。
「そういえば、まだ猫耳は健在?」
睦樹が聞いてくる。
「うん…相変わらずだね。でも、それ以外は普通にいい人みたいだし、茉凛にオススメしてあげたいけど…でも猫耳っておかしいよね?しかも私にだけ見えるのっておかしいよね?」
「まぁ、おかしいな。季穂って、目ぇ悪いっけ?」
睦樹が、顔を覗きこんできた。
「うん、少しね。高校入ってから落ちた。裸眼でぎりぎりかな。授業中は眼鏡だよ」
「じゃあ、目が悪くて猫耳が見えてるとか」
「そっか、なるほど…ってんなわけないし!どういう目だよ」
ついノリ突っ込みをすると、睦樹が「ははっ。ウケる」と笑った。
「あ、あれ?」
ふと、茉凛たちに視線を戻すと、二人ともいなくなっていた。
「さっきまでいたよね?もう帰ったのかな」
慌てて木陰から出て、茉凛たちがいたベンチの方へ向かう。すると――
「茉凛!」
私と睦樹の声が重なる。
茉凛が、ベンチに横たわっていた。上半身が見えなくなったのでいなくなったと思ったら、ベンチに倒れている。
「どうしたの、茉凛!」
「大丈夫。寝ているだけですよ」
柔らかい聞き覚えのある声が、背後から聞こえた。
「あ…」
そこには、猫耳の彼が、微笑みを携えて立っていた。
「あ、あの…」
「茉凛ちゃんの知り合いなんですか?今日、ずっと後付けてきてましたよね」
「えっと…」
何と言えば良いのだろう。
言葉につまっていると、睦樹が庇うように私の前に立った。
「実は、俺は茉凛の弟で、彼女はイトコなんです。今日は、茉凛がデートが不安だというので、ちょっと監視をしてました。不快な思いにさせてすみませんでした」
睦樹は落ち着いていた。話し方も大人びていて、驚いてしまう。私なんて、言葉につまって何も言えなかったのに。
彼の猫耳が、ぴくぴくと動く。それから、ふんわりと笑った。
「なるほど、そうなんですね。初めまして。峰幸多です」
「初めまして、弟の睦樹です」
「は、初めまして、イトコの季穂です」
軽く頭を下げる。
「あ、それで、茉凛は何で寝て…?」
ベンチに横たわっている茉凛の顔を覗く。確かに、眠っているだけのようだ。しかも、健やかな寝息をたて、幸せそうな顔で寝ている。
「あぁ、それは、君が僕の正体に気づいているみたいだったから」
彼は柔らかい笑みのまま、明るい口調で、私に向かって言った。どうしてだろうか、笑顔なのに、得体のしれない恐怖を覚える。ひゅっと背筋が寒くなった。
「え…」
「気づいている人って、分かるんですよ。季穂ちゃん、見えているんでしょう、この耳。ひょっとして茉凛ちゃんの知り合いかなと思って、話をしたくて待っていました。茉凛ちゃんは見えていないから驚くかと思って、眠ってもらいました。あと、君たちを誘き出すために」
「それって…」
「俺、見えないけど」
私の声を遮り、睦樹が言った。不機嫌そうな声だ。
「あぁ、確かに、弟君は見えないみたいですね。でも、一緒に聞いてもらった方がいいかと思って。秘密を共有することで、男女の仲は深まるものだと聞きますし」
「はぁ?」
「僕は、男女の色恋についても鼻が利くのですよ」
彼が、鼻をぴくぴくと動かした。動物のような動きだった。
「何言って…!」
「はっ!」
今度は、私が睦樹の声を遮っていた。つい驚きのあまり、和田アキ子のような発声をしていた。
「ひげ!」
「は?ど、どうした、季穂」
「猫みたいなひげ、生えてる!さっきまで見えなかったのに」
「は?」
睦樹が、警戒しつつ彼に近づく。透明に近い、白い長いひげの先端が、睦樹の顔に当たる。が、睦樹は気づいていない(というか、感じていないようだ)。
彼が、睦樹から離れるように一歩下がり、ふふふ、と笑った。ひげが、ふわふわと空中で揺らぐ。
「油断すると、いろいろ出ちゃうんですよ」
「つまり、あなたは、猫…なんですか?」
なんだか、英会話の例文の和訳みたいな話し方になってしまった。睦樹は、ずっと、眉をひそめている(見えていない睦樹からすると、ヤバイ奴らの会話だろうからそんな顔にもなろう)。
「無論、そこいらにいるただの猫じゃないですよ。猫又…と呼ばれますね、人間には」
「ねこまた…」
「猫の妖怪ってことか?」
睦樹の言葉に、柔和に微笑んでいた彼が真顔になり、目を細めた。
「その言い方は嫌いですが、まぁあなた方に分かりやすく言うと、そうですね。百年は生きていますから」
「百!意外におじいちゃんなんだ?」
彼の顔をまじまじと見る。猫耳と猫ひげはともかく、人間の姿は若く見える。
「やめてください、おじいちゃんって。猫又の世界では、僕なんてひよっ子ですよ。千年近く生きている輩がたくさんいますから。まぁでも、百年生きていると、人間に化けるのは容易いですけれど」
千年って…え?何時代?鎌倉時代とか…?
「で、なんでその猫又様が、人間に化けて茉凛とデートしてんだよ?」
睦樹の言葉がどんどんぞんざいになっていく。最初はあんなに丁寧な物言いだったのに、今や言葉の端々に怒りを感じる。
「へぇ。信じるんですか、僕の言ったこと」
彼は彼で、挑発するような物言いだ。睦樹の様子を見て、楽しんでいるように見える。
「君は全く何も見えないのに。季穂ちゃんが見えるというから、信じるんですか」
「そうだよ。そんなくだらねー嘘、吐くはずないからな」
「ふぅん。愛ですねぇ」
「はぁ?」
「む、睦樹、落ち着いて」
いつもわりと穏やかで寡黙な睦樹が、こんなにも誰かに対して敵意をむき出しているのは、初めてだった。少なくとも、私は初めて見た。
「そうですね、話がそれちゃいました。ええっと…そうそう、どうして人間に化けてデートしていたか、でしたっけ」
彼は動じる様子もなく、飄々と話を続ける。睦樹は、不機嫌そうに口を閉じた。
「したかったんですよ、デート」
「茉凛のことが好きってこと?」
そういえば、茉凛は猫好きだ。茉凛と睦樹の母親、つまり私にとって叔母さんが猫アレルギーなので飼っていないが、野良猫がいれば近寄って触ろうとするし(大体警戒して逃げられるが)、猫カフェにも何度か一緒に行ったことがある。
「いいえ。茉凛ちゃんは可愛いですけれど、僕のタイプではないので」
きっぱりと、彼が断言した。
「え?じゃ、どういう…」
「制服デート」
「へ?」
「制服デートがしたいだけ。それだけだったんです」
彼が、ふぅ、と息を吐いた。ひげが、また揺れる。公園の街灯に照らされて、きらきらと輝いた。
「制服って、不思議ですよね。学校以外にもいろいろな制服がありますけど、みんな同じものを着ているのに、似合うかどうかは人それぞれ。でも、普通の服よりも特別な感じがしませんか?人間の制服姿を、ずーっと見てきて、してみたくなったんです、制服デート。学生の制服デートって、とっても青春って感じがするでしょう?猫又だって、青春を感じたいこともあるのですよ。だから、学生の振りをして合同コンパというものに忍び込んで、そこで茉凛ちゃんと出会いました」
「よ、よく忍び込めたね?」
思わず、突っ込みを入れていた。彼は、きょとんと目を丸くした。
「簡単ですよ?人をちょっと惑わせることくらい。百年生きている猫を、にゃめないでください」
…あえて噛んだのだろうか。これは、突っ込まないでおこう。
「まぁ、可愛い妖怪の可愛い悪さだと思って、見逃してください。ね、季穂ちゃん」
いつの間にか、彼の顔が数センチの距離にあった。いつ近づいたのだろう。この距離になるまで、気が付かなかった?
「おい!」
睦樹が、彼の肩をつかんだ。彼の体が後ろに揺らぎ、私との間に距離ができた。
「ふふ。茉凛ちゃんの制服、季穂ちゃんのでしょう。で、季穂ちゃんの着ているのが、茉凛ちゃんの」
「え、分かるの?」
「えぇ、匂いで」
「え!汗臭いとか?」
慌てて、自分の匂いを嗅ぐ。
「あははは。違いますよ。言ったでしょう?鼻が利くんです、僕は。いろいろなことにね」
睦樹は、彼の肩を掴んだまま睨んでいる。
「では、睦樹君をこれ以上怒らせたくないので、そろそろ帰りますね。制服デート、楽しかったですよ。でも、季穂ちゃんみたいな見える子に会えたことの方が、興味深かったです。また会いましょう。うん、きっと、近いうちに」
彼と、目が合う。猫の目だ。さっきまでは、人の目だったはずなのに。
ぐら、と視界が揺れた。地震だろうか。いや、違う。身体は揺れていない。視界だけが、ぐらぐらと揺れて、景色が歪んだ。ほんの一瞬だったが、眩暈のような感覚に陥り、足から力が抜けた。
「季穂!」
倒れそうになったところで、睦樹のしっかりとした腕に支えられる。今日は二回目だ。
「ご、ごめん」
「大丈夫か?あいつ、何しやがった」
振り返ると、彼はもういなかった。公園の入り口にある茂みががさがさと音をたて、薄茶色の猫のしっぽが見えた、気がした。
「うん、大丈夫。一瞬くらっときただけだから…あ、それより、茉凛は」
「ん~~………」
うなり声がした。茉凛が、ベンチからゆっくりと体を起こしている。
「ふわぁぁ…はれ?何ここ?」
大きくあくびをして、伸びをしている。心配なさそうだ。
「あれぇ?三人で映画観に行って、ご飯食べて…何であたし、こんなとこいんの?寝てたの?」
茉凛が不思議そうに、きょろきょろと辺りを見渡した。
さすが、百年生きている猫又。茉凛の記憶を改ざんしてしまったらしい。
「え?ていうか二人、何抱き合ってんの?」
茉凛が目を丸くしてこちらを見ている。先ほどの支えられた姿勢のままだったので、抱き合っているようにみえたようだ。
「や、抱き合ってないから!」
「えぇ?怪しい~。何?二人、そんないい感じだっけ?」
「うっせぇなぁ。早く帰るぞ。まじ、疲れた。もう無理。全部、茉凛のせいだからな」
睦樹は私から手を離し、ものすごい速足で歩いて行ってしまった。
「えぇ?早すぎでしょ、あいつ。競歩の選手か!」
「ふっ、何それ。私らも、早く行こ」
「え~?なんか、季穂も嬉しそうじゃーん」
「そう?フツーだよ」
ついさっきのことなのに、まるで現実感がなかった。幻だったのでは、と思えてしまう。でも、幻ではない。現に、彼のせいで、睦樹はもはや遠くを歩いている(もう姿が見えなくなりそうだ)。
今までこんな奇妙な経験をしたことなんてなかったから、かなり驚いた。けれど、ちょっと楽しかった。ふわふわとした不思議な感覚が、体中に纏わりついている。睦樹は怒ってばかりだったけれど、あの猫又、おもしろかったな。それに、制服デートをしたかっただけなんて、ちょっとかわいい。
「あーあ、彼氏ほしいなぁ…」
唐突に、茉凛がつぶやいた。先ほどまでのことを覚えていないとはいえ、なぜか私が申し訳なくなる。
今後の茉凛の男運が上がることを、心から祈っておいた。
「そういや、聞いたー?」
窓際を陣取って、朝のホームルーム前のおしゃべりをしていると、ふと奈津(高一からの付き合い。SNSのつながり具合がすごい、情報通)が言った。
「転校生、来るんだってよ」
「え、中途半端な時期じゃない?」
「ねぇ。親の都合とかかな。男子らしいよーイケメンだといいね。目の保養~」
「男子かぁ…」
なんだか嫌な胸騒ぎがした。いや、胸騒ぎというか、予感に近かった。
「はーい、チャイム鳴りましたよー席ついてー」
担任の宮下が、大きな声とともに教室に入ってきた。
「おはようございます。朝のホームルームを始めます。と、その前に、噂に聞いている人もいるかもしれないけど、うちのクラスに転校生です。はい、入ってくださーい」
クラス中の注目が集まる。けれど、私は、顔を上げるのをためらった。本能的に。うつむいて、机の木目を見つめていた。
「じゃあ、なんでもいいので、挨拶どうぞ」
宮下の適当な言葉に促され、彼が息を吸う音が聞こえた。かすかな音のはずなのに、私の耳には、はっきりと聞こえた。
「初めまして、峰幸多です」
柔らかい声。あぁ、やっぱり。鼓動が早まるのを感じる。膝の上で、拳を握っていた。
私は、覚悟を決めて顔を上げた。数メートル先にいる彼と、ばっちり目が合う。
「よろしくお願いします」
にっこり、彼が微笑んだ。猫耳が、「よろしく」と言いたげに、ぴくんと私に向かって動いた、気がした。
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