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思えば、ナズナという少女は、本当に、どうしようもないくらい純粋で、まっしろな生き物だった。
ヒトの悪意など、全て吹き飛ばし、その上からやさしく包み込んでくれるような――そんな、あたたかい心の持ち主だったと思う。
一輝がそう言うと、目の前に座っていた雅人が、「陳腐な表現だな」と静かに目を閉じた。
その木造アパートは、それこそいつ崩れてもおかしくない、というような、ひどい痛み方をしていた。
中は電気が点いているのにどこか薄暗く、カビのようなにおいも鼻につく。
蠅でもいるのか、耳に障る音が、絶えず辺りに響いている。
雅人が、顔を上げた。
「……で。まさか、そんな事を言いに来たわけじゃないよな」
「まさか」一輝は雅人の目の前に座り、「今日は、おまえに『お別れ』を言いに来たんだ」と続けた。
雅人の顔が、少しだけ強ばった事に、一輝は、気づかないふりをした。
「……この前、家の片づけをやるって言っていたけれど。終わったのか」
「ああ。予定より少しかかっちまったけれど、家具も物も、全部捨てた」
「……。ナズナとの、思い出もか」
その言葉に、押し黙る。
けれど、ひるまず、「ナズナは、もういないよ」と首を振った。
今から1年ほど前に、ナズナは死んだ。
一輝がプロポーズをして、それからまだ、幾日も経っていなかった。
仕事が終わり、当時大学生だったナズナに、いつものように電話をし、「今から晩ご飯を食べに行かないか」と誘った。
彼女はとても嬉しそうに、『楽しみです』と返してくれた。
しかし、彼女はレストランには現れず、近所の廃工場の中で、見つかった。
服は着ておらず、身体には暴行のあとがあり、頭は、拳銃で撃ち抜かれていた。
「――ヒトがやったんだぜ」一輝は、唇を緩め、目をしばたたかせた。
「……なあ、雅人、信じられるか。あれ、ヒトがやったんだぜ。
人間が、やったんだぜ。
『ああいう事件』が少なくないって事は、知ってたけどさ。でも、信じられるか? 信じられないよな。
本当に、『人間』がやったと思えるか?
おまけに、ナズナは『ゼロ』だから、警察は動かない。犯人も、裁かれない。捜されない。
……なあ、信じられるか? この国は、狂ってんのか?」
雅人は、黙っていた。ただ、じっと、刺すような目で一輝を見て――やがて、「それで、『敵討ち』でもするつもりか」と、腰に差していた拳銃に指を立ててくる。
一輝は、ひゅう、と喉を鳴らした。
「……ナズナは、生きてたんだ」
噛みしめるように、言う。
「ナズナは、生きていた。
自分がゼロである事を背負い、苦しみながらも、必死で生きていた。
曲がらずに、まっすぐに。
いつ消えてしまうとも分からない、儚い命を抱いて。
……それでも、確かに、生きていた。
懸命に、生きていたんだよ」
彼女の大好きだった、前に読み聞かせてくれたあの本の内容が、頭によぎる。
きっとナズナは、いつか、『こうなってしまう』という事を、覚悟していたのだろう。
自分はいつか、この本のように、予期せぬカタチで一輝と離ればなれになってしまうのだろう、と。
だから、もし自分がいなくなってしまったとしても、この本の主人公のように、強く、生きてほしい。――彼女は多分、そんな事を自分に伝えたかったのだ、と一輝は思った。
「……馬鹿みたいだな」とつぶやく。
「自分の事より、俺なんかの事を心配してさ。……ホント、どうしようもない、馬鹿だよ」
吐き出すように言う。
それを聞いて、雅人は――「なら」と、唇を震わせた。
「そんな馬鹿なあいつの願いを、叶えてやってくれないか。
俺も、一輝に、『そんな事』はして欲しくはない。俺にとっても、一輝は、大切な存在なんだから。
一輝には。……『ちゃんと』、生きて欲しい」
顔を、ゆっくりと動かす。
雅人は、静かに立ち上がり、一輝の肩に、手を乗せた。
「……妹の、最後の願いを、叶えてやって欲しい」
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