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「アノヒトキタン 3」
僕の娘には幼いころから霊感があった。しかしその事に気が付いたのは、彼女が二歳になってからのことだ。女の子は成長が早く、男の子に比べて喋るのも早いとは聞いていたが、娘の成留は一歳頃から喃語を話し始め、二歳になるころには自分が二歳であると自覚していた。そんな彼女に僕と妻双方からの霊感が遺伝していると分かったのは、たまたま僕が受けた仕事の依頼が切っ掛けである。
僕の仕事はひと言では伝えにくいのだけれど、平たく言えば、心霊現象に困っている人々の相談に乗ることであり、解決に導くことで依頼料を貰っている。こちらから出向く御用聞きではないため安定した職業とは言えないが、それでもこの十年近く、依頼が途切れた事は一度としてない。
この時僕は、上司であり師匠でもある三神さんからの電話を受けて、その仕事を引き受けることになった。
「変わった依頼なんだがね」
と三神さんは言う。
「はあ」
「お前さんの自宅から車で二時間ほどの所に、大型のショッピングモールがあるだろう。郊外型の、いわゆる複合施設だ」
「××市の、○○のことですか?」
「そうだ。そこに今丁度、サーカス団が入っていてね、団長とはちょっとした知り合いなんだ」
「サーカス団」
「うむ。屋外にテントを張って、それなりに大きくやっとるんだよ、今も」
「へえ、面白そうですね。僕、一度も見た事ないですよ、サーカス」
「昔に比べて団体の数も減ったからなあ。それでだ、ワシの代わりに、お前さんに顔を出してほしいんだ」
「……はあ。え、依頼じゃないんですか?」
「依頼だよ。ただ、具体的な内容は言えないそうなんだ」
「何故です?」
「おそらく風評被害を恐れてだろうなぁ」
「はあ、でもそれでどうやって仕事を引き受けるんです?」
「来れば分かるそうだ」
「え?」
「チケットを三枚用意してもらった。成留を連れて見に行ってみんかね。もちろん、依頼料がそのチケットだなんてことはないから、安心してくれ」
「危険じゃないんですか?」
「お前さんが危険だと判断すれば手を引いて構わんよ。ワシが見に行きたいんだが、どうしても外せない用事があってね。どうだ、頼まれてくれんかね」
「いやぁ、三神さんの頼みは断れませんよ。仕事……なんでしょう?」
「いかにも」
「分かりました」
僕はこの三神三歳という呪い師を信じている。彼の人間性に心酔していると言ってもいい。年齢はもうすでに六十を回っているが、現役バリバリで超常現象に立ち向かう生粋の拝み屋である。その彼が幼い成留をも連れて行けというのだから、大した危険はないのだろうと思われた。
そして実際、初めて訪れたサーカスの会場は、カラフルなテントや演者たちの奇抜な衣装、動物たち、そこに集う人々の高揚感も相まって、予想以上に僕たち親子を楽しませてくれた。大きな商業施設の一画に併設されているだけあって、開園前から買い物客や来場客でごった返し、僕たちも軽い興奮状態に陥った。
早々に会場入りして関係者に声をかけ、三神さんから聞いていた依頼者のもとへと案内してもらった。この時点で妻と娘はすでに、自分たちの席に着席していた。
依頼者は名をタキさんと言った。タキさんは色とりどりの継ぎ接ぎジャケットを着た男性で、挨拶がてらにシルクハットを持ち上げた時に見えた頭髪は大分と薄くなっていた。鼻の下には手入れされた髭がくるんとカールしており、優しい目の持ち主だった。
僕が三神さんからの紹介で来た拝み屋であることを告げると、「若いのに」とタキさんは目を丸くして大袈裟に驚いて見せた。
「すみません、頼りないのがきちゃって」
僕が恐縮してそう言うと、タキさんは片足を一歩後ろへ下げ、
「なんのなんの」
と言って再びシルクハットを持ち上げた。すると中からバタバタと羽音をたてて鳩が飛び出し、驚く僕の横を通過してテントの高い天井目掛けて飛んでいった。
「……すごいですね、びっくりしました。タキさんは、奇術師なんですね」
「ああ、年寄だからこんなことくらいしかできないがね。それに、毎回髪の毛を持っていきやがるもんだからほら、もうこんなに薄くなっちゃって」
「あははは」
愉快な人だった。しかし僕と一緒になって笑うタキさんの顔は、どうしようもなく疲れ切って見えた。
「それで、ご依頼の件なんですが」
「ああ……うん」
タキさんは急に大人しくなって僕の足元を見つめ、「うん」と言ったきり口を閉ざしてしまった。
「このサーカスの中で、何か問題事が起きるんですね?」
風評被害を恐れて具体的な事象を口にできないのなら、そうとしか考えられない。
「演目を最後まで見てもらったら、分かると思うんだ。私らは、よく分からないから」
「分からないというと?」
「三神さんみたいに見えたりするわけじゃないし。……ただ」
「感じるんですね?」
僕の問いにタキさんは顔を青くして更に深く俯いてしまった。
「分かりました。終演後に、また来ます」
演目を見ていればわかるというからには、おそらくその超常現象には決まったルールがあるのだろう。同じ時間に起きるとか、同じ場所に出現するとか、そんな具合にだ。ただ、そうは言ってもこのテントは相当広い。どういった事象なのかも聞かされないままサーカスに魅入ってしまった場合、最悪何も気付けずに終わってしまう、なんてことにはならないだろうか。僕は一抹の不安を感じながら妻と娘のもとへ戻り、開演まで周囲の観察を怠らなかった。
だが結論から言えば、僕の抱いた不安は杞憂に終わる……。
拍手と歓声に彩られためくるめく幻想の世界は、見る者を圧倒し、感動と歓喜をもたらしてくれた。あえて悪く言えば、どこかで見たことがある。だがよく言えば、見たいものが見れた。映画やテレビでしか知らなかった有名な演目が目の前に広がる臨場感は、やはり我を忘れてしまうほどの輝きに満ちていた。現場の匂い、人々の息を飲む音、空が割れたような拍手。素晴らしいとしか言いようのない幸せなひと時だった。
妻は空中ブランコに祈りを捧げ、成留は巨大な像の玉乗りに立ち上がって「ウオー!」と叫んだ。
しかし、その瞬間はいきなり訪れた。
演目のハイライト、空中綱渡りでの一幕だった。
巨大なテントのほぼ天井近くに張られた一本のロープを、バランスを取りながら命綱なしで渡り切る、というものだった。もちろん下には落下防止用のネットが用意されている。だがそのネットは地上すれすれで、失敗すれば優に二十メートル近い落差を人が真っ逆さまに落ちていく。
僕と妻は視線をかわし、成留にこれを見せるべきかどうかで迷った。成功すればいい、だがもし失敗すれば、二歳の娘にはトラウマになるだろう。
会場が水を打ったように静まり返った。
「……あ」
と、妻が声を漏らした。
見ると、妻の視線はロープの上にスタンバイしている演者に注がれていた。若い男性で、鍛え上げられた肉体の上に乗る端正な顔にはやはり緊張が見られた。アシスタントの男性が、演者にむかってバランスを取る為の長い棒を手渡した。
始まる。
そう思った時、妻同様、僕も異変を感じとった。
ロープの上に立った男性演者のすぐ後ろに、アシスタントの男性がピタリとくっついているのだ。
何をやっているんだろう、と思った。はやく定位置に戻らねば、せっかくの演者が目立たないばかりか、はっきり言って邪魔である。
しかし視線をついと動かせば、先ほどのアシスタントはすでにもとの位置に戻り、真剣な表情で演者を見守っているのが目に入った。
「……え?」
思わず妻を見、そして会場を見渡した。
誰も何も思わないのか?
演者のすぐ後ろに、やはりもう一人の黒い影がぴたりとくっついているではないか。もちろん、この空中綱渡りは二人で行う演目ではない。
「あれは一体なんだ……」
巨大な影のような、黒いモヤだった。
よく見れば男性演者よりもその姿は大きく、今にも背後から演者を呑み込みそうなほどの至近距離をゆっくりと歩いていた。
ゾッとして隣を見ると、成留が青ざめた顔でその黒いモヤを見つめていた。
静かな会場に鳩の飛ぶ音が聞こえた。
その瞬間、男女入り乱れた悲鳴が湧き起こり、見れば演者が地上目掛けて落っこちていくところだった。妻が咄嗟に成留の視界を腕で覆うも、何が起きたのかは理解したかもしれなかった。
終演後、団長であるタキさんに、僕たちが見たものをそのまま伝えた。するとタキさんは、
「分かりました、ありがとう」
と言って頭を下げた。
おそらくだが、もともと彼には異変についての心当たりがあったのだろう。聞けば、ここのところ空中綱渡りは失敗続きで評判を落としているそうだ。人が落ちるところを見せたくてこの演目を行っているのか、と観客に怒鳴られたこともあるという。安全措置がとられているため演者に命の危険はないが、それでももう本人がやりたがらないそうだ。練習では落ちたことがない。体調も悪くないし、普段通りにチャレンジしても、やはり必ず落ちるという。
僕にはあの黒いモヤの正体が誰なのかまでは分からなかったが、それでもタキさんは僕に向かって「ありがとう」と頭を下げた。
その日の晩である。
家に帰って親子三人布団の中に入った。
すると成留が、こんなことを言う。
「あの黒い人は、どうして、お兄さんの邪魔をするの?」
僕も妻も口から心臓が飛び出るほど驚き、恐怖のあまり二人して成留を抱きしめた。
感受性の強い子ではある。しかしこれほどまでとは思わなかったのだ。
成留にはあの時、黒いモヤの行動がはっきりと見えていたのである。
こういう時、男は弱い。この目で見たものをそのまま伝えることは、僕にもできる。
過去にあのサーカス団で亡くなった団員が、今も成仏出来ずに繰り返し綱渡りに挑んでいるのではないか。
だが、そんなことを二歳の娘に言えるはずがないし、伝わるわけがないのだ。
すると妻が、こう言った。
「成留は、おやすみする時、おやすみなさいって、言うでしょ?」
「うん」
「おでかけする時、いってきますっていうよね。お父さんがお仕事行く時、いってらっしゃいっていうよね」
「うん」
「誰かとお別れする時は、成留はなんていう?」
「うーん……」
「難しいかなあ。でもね、そういう挨拶が出来なかった時、あ、ちゃんと言えばよかったな。ちゃんと言えればよかったのになあって、思う時ない?」
「あるよ。あのね、おやすみっていったあとね、眠る時ね、いっつもね、おやすみってね、言えないんだよね」
「そうそうそう、そういうことあるよね。だからあの人もね、きっとそうなんだよ、お別れを言えなかったから、ああやって言いにきてるんだよ」
「へー」
僕は隣で妻と娘の会話を聞きながら、危うく涙が出そうになった。
これ以上ないほどに、妻の話は的を射ていた。教訓めいた作り話でも、非情さの際立つあえての現実でもない。本当にどこにでもある当たり前の日常と、ぽかんと口を開いている落とし穴の話だった。その落とし穴には「死」という名前がついていて、人々の営みにある日突然現れる。あまりにも突然すぎて、落とし穴に落ちた人間はしばしばそのことに気付けず、受け入れることが出来ないのだ。だが、それをそのまま伝える術を僕はもたなかった。成留は、幸せだと思う。
そして、翌日である。
成留が急に、もう一度あのサーカスへ行きたいと言い出したのだ。当然僕も妻も止めた。だがそこは魔の二歳児と呼ばれる時期である。癇癪を起すほどの勢いで駄々をこね始めた。ただ、成留の場合これまでそういった駄々をこねる場面をあまり見てこなかったため、僕も妻もこれにはきっとワケがあると悟った。
しかし会場についた成留は、サーカスそのものをもう一度見たい訳ではなさそうだった。
「テントの中、入っていい?」
と僕に聞いてくる。
「いや、ダメだよ、まだ開場してないからね」
「でも」
「まだ像さんもいないよ?」
「うん、でも」
そんな僕たちのやりとりを団長のタキさんが見つけて下さり、ご厚意で少しだけテントの中を見せていただけることになった。きっと娘がサーカスに興味をもったと思い、喜んで下さったのだ。開演前のバタバタした状況にも関わらず、中を案内しようと仰るタキさんとともにテントに足を踏み入れた、まさにその瞬間だった。
さよーーーならーーーーーーー。
突然、成留が叫んだ。
ざわめきの充満するテント内が、静まりかえる。
両手でつくった三角形を口元に添え、幼児特有の高い声をふり絞り、成留は何度も何度も、天井に向かって叫んだ。
さよーーーならーーーーーーー。
さよーーーならーーーーーーー。
さよーーーならーーーーーーー。
またねーーーーーー。
さよーーーならーーーーーーー。
顔を真っ赤にしながら幼い声を響かせる成留の、優しさの乗った霊力が広い空間一杯に満たされて行った。
立ち尽くす僕の横で、タキさんは膝から崩れ落ちて泣いた。
その後そのサーカス団では一切の異変が止み、空中綱渡りでの失敗もなくなった、という。
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