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序章/1
名前を思い出せない。鮮血じみた紅花の咲くうらぶれた野原に、おのが名前を呼ばわる者は久しく、存在しないから。
天に広がる無数の星々、地を埋め尽くす草花の海、四隣を囲む頑強なときわ木、喉を控えめに圧す乾いた空気──屍のように痩せたその男は、長らく、嘆かわしい静寂に蝕まれていた。
孤独を愛する者ならば、赤き花咲く無明の大地に、一抹の安らぎを覚えただろう。しかし、男の胸のうちは、永久に癒やされない。
男は、孤独を嫌悪していた。憎悪していた。人間が、人肌のぬくもりが、恋しかった。しわの寄った両の手を差し出し、自分以外の誰かの体を、こころゆくまで抱きしめたかった。だが、永遠に等しき孤独を強制された我が身では、他人の体温など到底、得られるはずがない。
歌が聞こえる。長い頭髪をかき乱すほどの強風と、ときわ木の濃厚な葉叢が奏でる、一種の雅びな奏楽だ。人声のように潤う楽の音だけが、絶望にきしむ心を癒やしてくれる。
「愛している、愛している、私はあなたを愛している」と、震え声でささやかれているように感じる。「気のせいだ」と再三、気を引き締めてはいるけれど、ふたつの耳は、おのれの都合のいいように、たゆたう音色を解釈していく。
濃紫色の長衣を肩から引っかけ、上半身と下半身をぬかりなく覆っては、果てなく続く花畑を、無我夢中でさまよい歩く。歩いてさえいれば、停止さえしなければ、諦念さえいだかなければ、誰かに会える、孤独から救ってくれる他人に出会える──そう、固く信じていたから。
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