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僕は、スチールキャビネットの影に向かって、恐る恐る一歩踏み出した。
「あのう……どなたかいらっしゃるんですか?」
語尾が震えたのは怖かったからではない、初めての場所で、緊張していたせいだ。
と、のそり、と影が大きさを増した。
ちょうど、150~160センチくらいの、小柄な人くらいの大きさだ。思わず半歩退いてしまったのは、怖かったからではない、断じて。
ゆらりと影が動いた。キャビネットの影からその全容を現す。
首からがくりと項垂れた、ぼさぼさの髪。影をそのまま纏ったかのような黒い服。膝から下に覗く、白い足……。これは、アレだ、僕の知らない世界の住人……初めて見た………。
ふと、亡霊の体の両脇にだらりと垂れた真っ白な指先がピクリと動いた。
「ひっ──」
「あなたが宮本悠真?」
不意に青白い顔が勢いよく上がり、僕は危うく尻餅をつくところだった。ぎょろりとした目のまわりは、そういうメイクなのかあるいは天然のものなのか、どす黒いクマで縁取られている。
「あなたが宮本悠真?」
まるで井戸の底から響くような声……僕は声を出すことができず、何度もうんうんうんと頷いてみせた。
「そう……」
僕の視線の先で、亡霊は音もなくデスクのほうへと移動した。ようやく蛍光灯の下に出たことで、いくぶん生きた人間ぽくなった。
「私の名前は明智梨果。久我班の癒し担当」
「えっ……」
亡霊、ではないのか。癒し担当……え?
「あなたの事は聞き及んでいる。是非とも班長の捜索に協力してほしい」
亡霊ではなく、生活安全対策第5係、通称「クガハン」の刑事……え、癒し担当?
混乱する僕をよそに、亡霊……じゃなかった、明智さんは、デスクの椅子をすうっと指で示した。「座れ」という事だろうか。それとも他に何か深い意味があるのだろうか。
「そこに座って」
……深い意味はなかった。僕はおずおずと示された椅子に腰を降ろした。古びた椅子は、ギィイイイ、と不気味な音を室内に響かせた。
⇒https://estar.jp/novels/25650637/viewer?page=5
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