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「お前ら、一歩も動くんじゃねえぞ」
ダミ声が響き渡って、賑やかだった店内に緊張が走った。驚いたお客さんたちの視線の先には、覆面姿の男が。その手には拳銃が握られていた。
パニックになった人たちは男の一挙手一投足から目が離せなくなっていた。すると背後のドアが開き、続けざまに二人の男が乗り込んできた。同じくどちらも覆面姿。男の仲間のようだった。そのうちの一人は、最初にいた男の横で入口の見張り役を、もう一人は大きなカバンを手に受付の女の人のところへ行って、お金を要求した。
まさか、銀行強盗?―私はテレビドラマの脇役よろしく、その他大勢のお客さんたちと一緒になって、気配を消すように座り込んで、恐怖で震えていた。
「助けて・・・ケン」気がつけば、心の中で彼の名前を呼んでいた。
そしてその願いは、私が思ってもみなかった形で彼に届くこととなったのだ。
「おい。そこの女、こっちへ来い」
入口にいた強盗の一人が私を呼んでいた。
これ以上知らぬふりをしていると、ほかの人に危害が及んでしまうかもしれない。覚悟を決めて顔をあげた時、私は自分が選ばれたわけがわかった。なにも、小柄で人質にしても抵抗されなさそうだから―というわけではなかったのだ。
私はゆっくりと立ち上がり、両手を挙げながら強盗のもとに歩き始めた。
「ほら、こっちだ」
強盗は私の腕を乱暴に引っ張った。その温もりは、普段私の手を優しく包み込んでいるものとそっくりだった。
「大人しくしていれば命だけは助けてやる」
ダミ声でごまかしてはいるけれど、その声は、普段私の耳元で愛を囁いているものとよく似て聞こえた。
そしてなにより、今朝私がアイロンをかけたシャツと同じものをその男は着ていた。
まさか強盗犯が彼だったなんて。だとすればケンは、自分が逃げおおせた後に通報されないように、この場で私を始末する気なのだろうか。
こんなことはもうやめて―覆面越しのケンに私は訴えようとした。けれどケンは私と目を合わせようとしなかった。
思えば今まで、いくら仕事のことを聞いてもケンは話してくれなかったけれど、まさか職業「銀行強盗」だとは思ってもみなかった。それとも強盗をするのは今回が初めてなのかな。もしお金に困っていたのなら、相談してくれればよかったのに。いや、お金に困っていたとしても、ケンは―少なくとも私が知っているケンは、こんなことをする人ではなかったはずなのに。どうして―
私はケンのことがわからなくなっていた。
それは一瞬の出来事だった。
警察の人たちが銀行内に突入してきた。この場にいる誰もそのことに気づいていなかった。強盗たちの罵声を合図に、店内に悲鳴の渦が巻き起こり、そしてそれらは数発の銃声によってかき消された。
騒ぎの真っ只中、私は誰かに床に組み伏せられていた。
静まり返ったのち目を開けてみると、それはケンだった。ケンは仲間の撃ち合いに加勢もせず、その体で私の身を守ってくれていた。
―そう。私がケンを好きになったのは、そんな彼の優しいところなのだ。彼の体の下で、私はそのことを思い出していた。
きっとこの後ケンは逮捕されてしまうだろう。できることならもう一度、落ち着いて彼と話したいな―やがてその重みはゆっくりと体を離れ、私は静かに瞼を閉じた。
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