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「ただいまー」
今日も、私の元にいつもの温もりがやってくる。
「今日は遅くなってごめんね」
彼等という温もりに出会ってから、私は幾夜の孤独に耐えただろうか。
初めは、一晩、また一晩と数えていた。
だが、いつの日かそれもやめてしまった。
気が遠くなるほどに途方もない数になってしまうと改めて気がついてしまえば、こうして数えることは私をより空虚にしてしまうだけだと気がついてしまったからだ。
私の足元に、冷たくも温もりのある水が降り注がれる。
「僕がもう、高校卒業だってさ」
私の足元にすら届かなさそうな小さな呟きは、踏み固められた地面に落ちる。
「早かったね。母さんが死んでから、もう10年か」
自嘲気味にすら聞こえるその言葉に、私はじっと耳を傾ける。
「そっか、もう10年か」
私の指先にそっと触れながら、少年から青年へと変わった彼は、ほうと息をつく。
「10年で、こんなに育つのか」
彼は、そう言って立ち上がる。
しかし、彼が去っても、今日は珍しく寂寥感は残らない。
私自身へと向けられた彼の呟きが、少し嬉しそうな響きを含んでいてくれたおかげだろう。
私を包む温もりが消えうせる前に、またもう一つの温もりが私の元を訪れる。
「ただいま」
少し見慣れてきた青年から一人の大人へと変化した彼は、私に水を降り注ぐでもなく、毎日ただ私の前に座り込み、静かに語って、そして立ち去ってゆく。
「お前が来てから、もう10年か」
今や青年となった彼と同じことを口にするとは、この上なく微笑ましいことだ。
「10年前、母さんが死んで、俺とあいつが2人きりになって、俺が母さんの遺産と、俺のバイト代で、二人でここで暮らしていくことを決めて……」
過去を訥々と回顧する彼は、哀愁の籠った視線を足元へ落とす。
「それで、あいつがもう大学進学だもんな」
共に暮らしてきて、今は青年となった弟がいるであろう背後の小さなアパートを振り返る彼は、ふふっと声を漏らす。
「お前にも、本当に感謝だな。母さんが死んで、落ち込んでたあいつが、毎日お前の世話をして、ちょっとずつ元気になっていたんだからな」
私を慈しみ深く見つめてくれる彼は、これまでにどれほどの苦労と努力を積み重ねてきたのだろう。あ。
先刻、一口に言ってみせた過去の中には、数えきれないほどのことがあったに違いない。
幼い弟と、未熟な兄。
たった二人で生きてゆくには、きっとこの世界は厳しいものだ。
小さな声で私への感謝を口にした彼は、また静かに私のもとから立ち去ってゆく。
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