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『ブルーム月島』は、駅前にある『ファーストリビング月島』から徒歩三分圏内の場所に立っている。車を使うまでもない。
『ファーストリビング月島』の向かい側にある通りには、飲食店が軒を連ねている。
「あそこのラーメン屋はけっこう人気がありますよ。豚骨スープが若者に受けていて、いつも昼時は行列ができてます」
適当に街の情報を提供しながら道を進む。隣を歩く男は、首を動かして周りを眺め、どこに何があるのか把握しようとしている。これは良い傾向だ。冷やかしではなく、本気でここに居住しようとしている、ということだ。
「黒木さんは、今はどちらに住んでらっしゃるんですか」
「吉祥寺」
「けっこう遠くからいらっしゃったんですね」
吉祥寺は、都内で住みやすい街ランキングにいつも入っている。商店街があるし、遊ぶ場所もあって楽しそうだ。家賃は高いが。
「月島に住もうと思った決め手って何かあったんですか」
「泳げる場所があるから」
「ああ、『月島スポーツプラザ』ですね」
「そう。さすが、よく知ってるな」
速人が何を話しても無表情だった男が、ようやく口元を緩ませた。
速人は少しホッとした。自分より二つか三つ黒木は年上だと思うが、どうもとっつきにくい所があった。
「私も泳ぐのは好きですよ」
「じゃあそのスポーツプラザに行ってる?」
「いえ、最近は全然」
一年と二ヶ月前、実家から月島に引っ越してすぐの頃は週三回通っていたが、今は行かなくなっている。
「仕事が忙しい?」
「そうですね。なかなか――あ、ここです」
話を止めて、速人は目の前にある建物を指さした。
八階建ての、鉄筋コンクリート造りのマンション。縦長でビルっぽい佇まいだ。
「ここです。一階と三階の部屋が空いているんですが」
「じゃあ一階から」
「かしこまりました」
二人はエントランスドアを開け、中に入った。玄関フロアには集合ポストと、チラシを捨てるゴミ箱がある。
自動ドアを通り、廊下を前進して二つ目のドアが102号室だ。
「ここです」
鍵を開けて速人は室内に入り、素早くスリッパを床に揃えて置いた。黒木がスリッパを履くのを見届けてから、速人は自分も履いた。
この部屋は残念ながら、あまり日当たりが良くない。今日は曇りということもあって、部屋全体が暗かった。
リビングに先に行くよう黒木に促し、速人は玄関入ってすぐの洗面所へ行き、ブレーカーを上げた。
玄関からリビングまでの廊下と、洗面所がパッと明るくなる。
リビングに向かうと、埋め込み型の照明が点いたので、少し明るくなっている。
黒木が部屋の中央あたりに立ち、何もない空間を見渡している。彼の隣に立ち、速人は声をかけた。
「いかがですか」
リビングルームだけで十一畳もある。設備されたシステムキッチンは、黒と白の木目調でモダンなデザインだ。
「広いな」
黒木が呟いた。
「二人入居可能ですよ」
すかさず速人は伝える。この部屋は、一人で住むには広すぎる。もともとお金に余裕のあるDINKs向けの物件なのだ。
次に、玄関入って右に位置する納戸、リビングの隣にある六畳の洋室、バルコニー、洗面所、その奥にある風呂場を一通り黒木に見せた。
「あとはゆっくりご覧になってください」
一人でじっくり見たいだろうと思って、速人は彼から離れようとした。が、「待てよ」と声をかけられる。
「一緒に風呂に入ってよ」
風呂場に留まったまま、黒木が薄く笑って、速人に手招きをしてくる。速人は言われた通り、風呂場に足を踏み入れた。洗い場に二人で立つ。
「風呂場も広いな。二人で入っても狭くない」
感心したように言い、黒木がバスタブに移る。
「お前も入れよ」
若干横柄な物言いに聞こえたが、気にしても仕方がない。
「はい」
バスタブを跨いで中に入る。と、黒木がジーンズのポケットからメジャーを取り出して、サイズを測り始めた。
――この部屋が気に入ったみたいだな。
でなければ、メジャーを取り出したりはしない。
黒木は風呂場から出たあとも、部屋を一つずつ回って、壁や窓にメジャーを当てていた。
十五分後、内見を終わらせ、二人は広い玄関に戻った。ここも高級感があるスペースだ。床はクリーム色のタイルが敷き詰めてある。壁には二メートル四方の鏡がはめ込まれている
「なによりコレが気に入った」
黒木がスリッパからスニーカーに履き替えて、鏡の前に立った。
「鏡ですか」
速人も革靴に履き替えて二組のスリッパを持ち、彼の隣に立つ。
こうやって並んで立つと、自分たちの体格の差が歴然となる。
速人は身長が百七十センチ、体格は細身だ。水泳をやっているから脱いだらけっこう凄いのだが、今はスーツを着ているし、その上にはオータムコートを羽織っている。
一方黒木は、長袖のTシャツ一枚に、ジーンズ。薄着過ぎる。もうすぐ十二月になるというのに。
そして、やはり黒木は、カイトに瓜二つだった。
思わず速人は、鏡に映った黒木を凝視し、そのあと彼の腕に手で触れていた。ちゃんと感触があることに、安堵した。
「何?」
黒木が鏡越しに速人を見つめてくる。
「いえ、何も」
速人は慌てて、彼の腕から手を離した。自分よりも一回り太い腕だった。
「何もないのに触んの?」
黒木が可笑しそうに笑って、速人を流し見た。鏡越しにでも、その目には意味深な光を帯びているのが分かる。
「申し訳ありません」
速人はとりあえず謝罪した。客の腕を馴れ馴れしく触ってしまったのだ。
「別に怒ってないけど」
言うと同時に、黒木の手が伸びてくる。
速人は鏡を見ていた。己の頬に、大きな手が触れようとしてくる。首筋がゾクリとする。でも、避けるのは過剰反応な気がした。相手は客だ。
だが、彼の手は頬に触れてこなかった。
「なに怯えてんの」
黒木が苦笑して、手を引っ込めた。速人の体から、緊張が一気に抜けていく。
「この部屋に決めた」
部屋から出たとたん、黒木が言った。
「本当ですか。ありがとうございます。三階の部屋は見なくても」
「見ない」
「わかりました。店に戻って、申込書を書いていただけますか」
自然と声が明るくなった。これが決まれば、給料も下がらない。有難い。
「お前はどこに住んでんの?」
いくら客でも、お前呼ばわりはないと思うが。反発するわけにもいかない。成約まで我慢だ。
「申し訳ありませんが答えられません。規則で言ってはいけない決まりになっています」
「ああそう」
どうでも良さそうな返しに、速人はホッとした。本気で聞いてきたわけじゃなさそうだ。
ファーストリビング月島まで戻る間、黒木は数回、速人のことをお前と呼んだが、さほど気にならなくなっていた。
むしろピタリとくる。
かつて速人の中だけで存在していたカイトも、自分のことをお前呼ばわりしていたからだろう。
――どうして同じ顔をしてるんだ?
疑問の答えは、いつか出るだろうか。
黒木に対する印象は、悪くはないが良くもない。
懐かしいけど、なんだか怖い。
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