1/1
前へ
/31ページ
次へ

 店舗に戻ってからは、先ほどと同じカウンターテーブルで、黒木に申込書を書いてもらった。不備がないかチェックして、背後にある複合機でマンションの貸主にファクスを送る。 「審査の結果が出ましたらご連絡差し上げます。通常一週間ぐらいかかります」  カウンターテーブルに立ったまま黒木に言うと、彼は察したように席を立った。  速人は外に出て、黒木をお見送りする。 「何か気になることが出てきたら、お電話かメールをください」  テンプレートの科白と共に一礼する。 「わかった」  黒木が手を軽く振って、大江戸線の月島方面へ歩いていく。人通りは少ない。彼の背中が遠くなるまで見送っていると、ふいに彼がこちらを振り返った。  なんとなくバツが悪くて俯くと、背後から声を掛けられた。 「観月さん、こんにちは」  最近よく聞く声。以前速人が、接客した女性だ。二十代後半のOL。  ため息が出そうなのを堪えながら、速人は彼女の方に体を向け、笑顔を作って対応する。 「こんにちは」  挨拶だけ。名前を覚えてはいるが、あえて口にしない。 「あの、これ、買い物のついでに買ったんです。もしよかったら」  彼女が両手に持っているのは、セロハン紙でラッピングされたクッキーだった。ケーキ屋で売っているとすぐにわかる。 「すみません。お客様からは物を受け取ってはいけない決まりですので」  何度も言っている言葉を、また笑顔で話す。こめかみがジクジクと痛む。 「もうお客様じゃないでしょ」  不満そうな表情をされ、速人は曖昧に笑った。 「お付き合いは続きますから……何か困ったことがありましたら、すぐにご連絡ください」  会釈をしながら、速人は店舗のドアを開けた。素早く中に入り、あとは振り返らずにカウンターテーブルに戻った。 「モテるねえ」  他のテーブルから、内城がヤジってくる。暇そうに耳をほじりながら。  外でのやり取りをしっかり見ていたのだろう。  速人は苦笑で返し、クリアファイルに入れた黒木の申込書をもう一度確認した。  名前――黒木 陵介。  生年月日を見て、速人より三つ年上の二十七歳だと分かる。  入居人数――一人。勤務先――丸蒼。  ――丸蒼って、有名な商社だよな。  雇用形態は、正社員。  ――すげえ。  年収はさもありなん。自分とはかけ離れた額だ。毎月家賃に二十万以上出せるわけだ。  ――俺のカイトとは全然違うな。  あいつは金持ちではなかったし、職にも就いていなかった。自分が細かい設定を省いていたということもあるが。  ――カイトと黒木さんは別人だ。  自分に言い聞かせる。当たり前のことを。  もしかしたら。黒木の名前をネットで検索すれば、何かヒントがあるかもしれない。答えが簡単に出てくるかもしれない。でもやらない。速人はそれを、プライバシーの侵害だと思っている。    午後八時に仕事を終えて、速人はまっすぐ自宅に帰った。  大江戸線の月島駅から歩いて十分の場所にあるアパート、『富岡荘』。名前通り古いユニットバス付きの1Kだ。  誰もいない部屋に入り、速人は一応「ただいま」と言った。物がないから、小さい声でも木霊する。  電気を点ける。二つある窓のカーテンは閉じてある。簡易キッチンの一口コンロには、やかんが鎮座している。床は日焼けした畳。  家賃は安いが、住んでいてテンションがあがる物件ではない。でも、それでいい。  部屋にはベッドも棚も机もない。大物は、一人暮らしを始めたときに買った布団一式だけ。洗濯機がない。コインランドリーで事足りる。冷蔵庫がない。近くにコンビニがある。  鴨居にはスーツ三着と、ワイシャツ三枚、ネクタイ五本を吊るしている。どれも皺ひとつなくカチッとしている。まともな店で買った。玄関で脱いだ革靴も、一応ブランドだ。しっかりした造りで気に入っている。  畳の一か所には、丸めた靴下が山になっている。靴下は大事だ。内見で客に足を見られる。穴が空いていたりしたら格好悪い。  ――何が大事かって。  住み心地の良さなんかじゃない。贅沢な暮らしでもない。いざとなったら、すぐに退去できるようにしておくこと。  速人はネクタイを緩め息を吐いた。  こんな暮らしは正直嫌だ。でも、もうしばらくは続けないと。  こうなった理由は、もちろんある。  新卒で『ファーストリビング月島』に入って半年たった頃だ。まだ実家に住んでいた。  あの日は日曜日だった。速人は、二階の自室のベッドで昼寝をしていた。  突然母親に大声で呼ばれた。仕方なく一階に下りリビングに向かったが、ソファに座っている客を見て、一気に眠気が吹っ飛んだ。  そこには別れた恋人がいた。  金縛りにあったみたいに、体が硬直し、甲高い耳鳴りがした。じっとりと額に汗が浮いた。  何も言えずに佇んでいると、紘一が速人を見つけ、目に喜色を浮かべた。口角が上がったが引き攣っていて、尋常じゃない笑みだと感じた。胸騒ぎに襲われたが、やはり口が動かなかった。  上座のソファには紘一が、下座のソファには両親が座っている。嫌な予感がピークに達した。 「急にどうしたの? スーツなんて着ちゃって。紘(ひろ)くんが家に来るの珍しいわね」  母が浮き浮きしながら話している。彼女は紘一を小学校の頃から気に入っていた。速人たちが高校一年から付き合いだしたことも知らないし、関係を疑ったこともないだろう。 「大事なお話があります」  奴を止めないとマズい――速人の第六感が警告してきた。だが、声が出ない。 「僕と速人さんは高校の時から付き合っています」  その言葉で、速人の全身から血の気が引いた。母は「え?」と動揺した声を漏らし、父は顔をしかめた。 「付き合ってたって」  困惑した母の声を遮るように、なおも紘一が言った。 「もう長い付き合いになりますし、速人さんと養子縁組させてもらえないかと、お願いしに、今日伺いました」  紘一は真顔だった。速人は恐怖で体が震えた。これは逃げないと、と静かに後ずさった。 「就職して半年経ちました。自信が持てたので、速人さんを迎えに来たんです」  にこりと紘一が笑った。頭がおかしくなったとしか思えなかった。  速人は震える体を叱咤して、走って二階に上がった。自室に入り、鍵をしっかりと掛けた。ベッドに上がり、布団に丸まって現実逃避を決め込んだ。ドアをドンドンと叩く音がしたし、紘一や母や父が速人を呼ぶ声もしてきた。すべて無視した。  だいぶ時間が過ぎたとき、紘一が叫んだ。 「また、必ず迎えに来るから」  明るい朗らかな声。俺たちは別れただろう、と叫びたかったが、声がどうしても出なかった。歯がカチカチと鳴るだけだった。  それからは、実家が針のムシロになった。両親はどういうことなのか詰問してきたが、速人が正直に今までのことを話すと、絶望したように顔を真っ白にさせ、翌日からは挨拶もしてこなくなった。姉は実家にはいなかった。義兄のいるハワイに帰っていたのだ。  速人は半年働いた金で、会社近くのアパートに急いで引っ越した。  ここに越してきて半年ぐらいまでは、実家に紘一が来た時だけ、「来たわよ。どうにかして」と、母から苦情のメールが届いていた。   最近はとんとメールが来ない。紘一が諦めてくれたのなら嬉しいが、どうしてもあの置き台詞が頭から離れない。  速人の居場所は、紘一にはバレていないはずだ。両親に口止めしている。  でもいつかは、探し当てられるんじゃないのか――そんな不安が常に渦巻いている。
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!

799人が本棚に入れています
本棚に追加