799人が本棚に入れています
本棚に追加
3
店舗に戻ってからは、先ほどと同じカウンターテーブルで、黒木に申込書を書いてもらった。不備がないかチェックして、背後にある複合機でマンションの貸主にファクスを送る。
「審査の結果が出ましたらご連絡差し上げます。通常一週間ぐらいかかります」
カウンターテーブルに立ったまま黒木に言うと、彼は察したように席を立った。
速人は外に出て、黒木をお見送りする。
「何か気になることが出てきたら、お電話かメールをください」
テンプレートの科白と共に一礼する。
「わかった」
黒木が手を軽く振って、大江戸線の月島方面へ歩いていく。人通りは少ない。彼の背中が遠くなるまで見送っていると、ふいに彼がこちらを振り返った。
なんとなくバツが悪くて俯くと、背後から声を掛けられた。
「観月さん、こんにちは」
最近よく聞く声。以前速人が、接客した女性だ。二十代後半のOL。
ため息が出そうなのを堪えながら、速人は彼女の方に体を向け、笑顔を作って対応する。
「こんにちは」
挨拶だけ。名前を覚えてはいるが、あえて口にしない。
「あの、これ、買い物のついでに買ったんです。もしよかったら」
彼女が両手に持っているのは、セロハン紙でラッピングされたクッキーだった。ケーキ屋で売っているとすぐにわかる。
「すみません。お客様からは物を受け取ってはいけない決まりですので」
何度も言っている言葉を、また笑顔で話す。こめかみがジクジクと痛む。
「もうお客様じゃないでしょ」
不満そうな表情をされ、速人は曖昧に笑った。
「お付き合いは続きますから……何か困ったことがありましたら、すぐにご連絡ください」
会釈をしながら、速人は店舗のドアを開けた。素早く中に入り、あとは振り返らずにカウンターテーブルに戻った。
「モテるねえ」
他のテーブルから、内城がヤジってくる。暇そうに耳をほじりながら。
外でのやり取りをしっかり見ていたのだろう。
速人は苦笑で返し、クリアファイルに入れた黒木の申込書をもう一度確認した。
名前――黒木 陵介。
生年月日を見て、速人より三つ年上の二十七歳だと分かる。
入居人数――一人。勤務先――丸蒼。
――丸蒼って、有名な商社だよな。
雇用形態は、正社員。
――すげえ。
年収はさもありなん。自分とはかけ離れた額だ。毎月家賃に二十万以上出せるわけだ。
――俺のカイトとは全然違うな。
あいつは金持ちではなかったし、職にも就いていなかった。自分が細かい設定を省いていたということもあるが。
――カイトと黒木さんは別人だ。
自分に言い聞かせる。当たり前のことを。
もしかしたら。黒木の名前をネットで検索すれば、何かヒントがあるかもしれない。答えが簡単に出てくるかもしれない。でもやらない。速人はそれを、プライバシーの侵害だと思っている。
午後八時に仕事を終えて、速人はまっすぐ自宅に帰った。
大江戸線の月島駅から歩いて十分の場所にあるアパート、『富岡荘』。名前通り古いユニットバス付きの1Kだ。
誰もいない部屋に入り、速人は一応「ただいま」と言った。物がないから、小さい声でも木霊する。
電気を点ける。二つある窓のカーテンは閉じてある。簡易キッチンの一口コンロには、やかんが鎮座している。床は日焼けした畳。
家賃は安いが、住んでいてテンションがあがる物件ではない。でも、それでいい。
部屋にはベッドも棚も机もない。大物は、一人暮らしを始めたときに買った布団一式だけ。洗濯機がない。コインランドリーで事足りる。冷蔵庫がない。近くにコンビニがある。
鴨居にはスーツ三着と、ワイシャツ三枚、ネクタイ五本を吊るしている。どれも皺ひとつなくカチッとしている。まともな店で買った。玄関で脱いだ革靴も、一応ブランドだ。しっかりした造りで気に入っている。
畳の一か所には、丸めた靴下が山になっている。靴下は大事だ。内見で客に足を見られる。穴が空いていたりしたら格好悪い。
――何が大事かって。
住み心地の良さなんかじゃない。贅沢な暮らしでもない。いざとなったら、すぐに退去できるようにしておくこと。
速人はネクタイを緩め息を吐いた。
こんな暮らしは正直嫌だ。でも、もうしばらくは続けないと。
こうなった理由は、もちろんある。
新卒で『ファーストリビング月島』に入って半年たった頃だ。まだ実家に住んでいた。
あの日は日曜日だった。速人は、二階の自室のベッドで昼寝をしていた。
突然母親に大声で呼ばれた。仕方なく一階に下りリビングに向かったが、ソファに座っている客を見て、一気に眠気が吹っ飛んだ。
そこには別れた恋人がいた。
金縛りにあったみたいに、体が硬直し、甲高い耳鳴りがした。じっとりと額に汗が浮いた。
何も言えずに佇んでいると、紘一が速人を見つけ、目に喜色を浮かべた。口角が上がったが引き攣っていて、尋常じゃない笑みだと感じた。胸騒ぎに襲われたが、やはり口が動かなかった。
上座のソファには紘一が、下座のソファには両親が座っている。嫌な予感がピークに達した。
「急にどうしたの? スーツなんて着ちゃって。紘(ひろ)くんが家に来るの珍しいわね」
母が浮き浮きしながら話している。彼女は紘一を小学校の頃から気に入っていた。速人たちが高校一年から付き合いだしたことも知らないし、関係を疑ったこともないだろう。
「大事なお話があります」
奴を止めないとマズい――速人の第六感が警告してきた。だが、声が出ない。
「僕と速人さんは高校の時から付き合っています」
その言葉で、速人の全身から血の気が引いた。母は「え?」と動揺した声を漏らし、父は顔をしかめた。
「付き合ってたって」
困惑した母の声を遮るように、なおも紘一が言った。
「もう長い付き合いになりますし、速人さんと養子縁組させてもらえないかと、お願いしに、今日伺いました」
紘一は真顔だった。速人は恐怖で体が震えた。これは逃げないと、と静かに後ずさった。
「就職して半年経ちました。自信が持てたので、速人さんを迎えに来たんです」
にこりと紘一が笑った。頭がおかしくなったとしか思えなかった。
速人は震える体を叱咤して、走って二階に上がった。自室に入り、鍵をしっかりと掛けた。ベッドに上がり、布団に丸まって現実逃避を決め込んだ。ドアをドンドンと叩く音がしたし、紘一や母や父が速人を呼ぶ声もしてきた。すべて無視した。
だいぶ時間が過ぎたとき、紘一が叫んだ。
「また、必ず迎えに来るから」
明るい朗らかな声。俺たちは別れただろう、と叫びたかったが、声がどうしても出なかった。歯がカチカチと鳴るだけだった。
それからは、実家が針のムシロになった。両親はどういうことなのか詰問してきたが、速人が正直に今までのことを話すと、絶望したように顔を真っ白にさせ、翌日からは挨拶もしてこなくなった。姉は実家にはいなかった。義兄のいるハワイに帰っていたのだ。
速人は半年働いた金で、会社近くのアパートに急いで引っ越した。
ここに越してきて半年ぐらいまでは、実家に紘一が来た時だけ、「来たわよ。どうにかして」と、母から苦情のメールが届いていた。
最近はとんとメールが来ない。紘一が諦めてくれたのなら嬉しいが、どうしてもあの置き台詞が頭から離れない。
速人の居場所は、紘一にはバレていないはずだ。両親に口止めしている。
でもいつかは、探し当てられるんじゃないのか――そんな不安が常に渦巻いている。
最初のコメントを投稿しよう!