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 次に黒木が来店したのは、十一月末日の土曜日。彼に物件を紹介してから六日目で、賃貸契約を結ぶことができた。黒木が十二月から入居したいと希望していたので、速人は大家を急かして、入居審査を三日で終わらせてもらった。その間、業者に頼んで入居予定の部屋を掃除、殺菌してもらったりと、速人は諸々の手配にてんてこ舞いだった。  黒木も動きが早かった。短い期間で、連帯保証人の印鑑証明や同意書など、必要書類をすべて用意してくれたのだ。家賃二ヶ月分と敷金、仲介手数料も、審査が下りた旨の連絡をしたら即座に振り込んでくれた。 「早々のご対応、誠にありがとうございます。こんなに早く成約することができたのは、黒木さんのお陰です」  黒木の押印箇所をチェックし終えた速人は、丁寧に謝意を述べた。 「俺も早く引っ越したかったから」  「そうなんですか。今日から入居可能ですよ」  速人は書類一式をA4封筒に入れ、黒木に手渡した。 「ありがとう」  すんなりと黒木が礼を言ってくる。意外だ。  彼も手続きが無事終わって、気分が良いのかもしれない。 「退去手続きの方は終わってるんですか」  ちょっと心配になって聞いてみる。 「必要ない。前の部屋は引き払ってない」 「え?」 「女と同棲してたんだ。その人がまだ住んでるから」 「あ――なるほど」  速人は反応に困った。彼女と別れたのかな、なんて下世話なことを考えてしまった。 「一年も持たなかったな」  あっさりと黒木が言う。 「はあ」としか返事のしようがなかった。だが、内心速人はホッとしている。女性と同棲していた、ということは黒木はノーマルだろう。  ――俺が神経質になりすぎてたんだ。  速人は内見での黒木の行動に、少し引っ掛かりを覚えていた。玄関の大きな鏡の前で、速人の頬に触れてきそうになったときの彼の目が、自分に興味を持っている人のそれに似ていた気がして。  速人は今の仕事にさほど不満を抱えてはいないが、一つ嫌な事はあった。物件を紹介した客に好意を持たれてしまうことだ。女性だけならまだ良いが、男からもストーカーのような行為をされ、困ったことがある。  月島スポーツプラザを利用しなくなったのも、それが原因だ。男が偶然を装ってプールに現れ、スイムパンツ一枚の速人の姿を嘗めるように見てきたのだ。何回も。 「新しい場所で、また良い出会いがありますよ」  速人は黒木に微笑みながら言った。慰めになっただろうか。 「では鍵もお渡ししますね」  カードキーを二つ封筒に入れて、黒木に両手で渡す。一瞬だけ、指先同士が触れた。自分よりも硬く、長い指。ピリッと電流が走った気がした。静電気のせいだろう。 「観月さんは恋人いるの」  黒木が悪戯っぽい目をして、速人をじっと見てくる。 「今はいません」  正直に答えてしまった。  ――初めて苗字で呼ばれた。  前回のときは「お前」を連発されたのに。 「いない歴はどれぐらい?」 「一年半ぐらい」  また正直に答えてしまった。嘘を吐くのも、返事を濁すのも面倒だった。  童貞を貰ってくれた奈々とは、半年付き合って別れた。理由はよくあるすれ違い。お互い就職して忙しくなり、思うように会えなくなったからだ。休みも合わなかった。彼女は土日休みで、速人は毎週水曜日と、隔週で日曜日。 「ご契約ありがとうございました。なにか困ったことなどございましたら、いつでもご連絡ください」  テンプレートの科白に抑揚をつけて口に乗せる。 「ありがとう」  黒木が意味ありげに目を細め、速人をじっと見た。  この目は嫌だ、と思った。  目を逸らして、速人は腰を上げた。 「ごめんなさい。次のお客様がお待ちなので、ここで」  実際、室内で椅子に座って待っている客がいる。外までお見送りはしないことにする。  黒木が「どうも」と言って、席を立った。
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