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 水曜日の午前七時。  速人はスマホのアラームで目を覚ました。布団に寝そべったまま、スマホを手に取り、LINEを開く。 『今日はプール来る?』  友人の智(さとし)にメッセージを送る。   すぐに既読にならないので、起き上がって布団を片付け、スイムパンツとゴーグル、バスタオル、キャップ、財布をスポーツバッグに詰めた。そのあとパジャマ上下を脱ぎ捨てて浴室に行き、剃刀で陰毛を剃った。落ちた毛をシャワーで流す。  陰部の剃毛をする理由――速人は競泳用の水着を愛用しているので、毛がはみ出さないようにエチケットとして。  ――前はセックスのために剃ってた。  紘一に頼まれて。浮気の防止の意味合いもあったらしい。 「あいつの方が浮気してたのにな」  独り言ちて、苦笑した。  紘一に対して未練があるわけではない。今では顔も見たくないが、付き合いが長いせいか、彼に強制されて行ってきたことが不本意にも習慣になっていたりする。剃毛然り、排便後にウォッシュレットをすることも。  ついでに全身にもシャワーを当てて、速人はユニットバスから出た。  鏡に映った自分の姿は、そこそこ気に入っている。アイボリー色の肌、しっかりついた筋肉、手足は細い方だがしなやかさがあると思う。体毛は目立たない。もともと毛深くはなかったが、プールの塩素でよけい薄くなった。  バスタオルを巻いたまま部屋に戻り、スマホを確認した。智から返信があった。 『俺は今日仕事。というか、今日は設備点検でプールやってないよ』  プールやってない、の文字に速人は軽くショックを受けた。  休日はいつも、渋谷の区営プールで泳ぐのが日課になっているのだ。それぐらいしか楽しみがない。 『ショック』 『近くにプールないの?』  智からの返信を見て、速人は逡巡する。  月島スポーツプラザにも、四レーンの温水プールがある。施設は綺麗だし、使い勝手も良い。行きたい。でも、ストーカーっぽい男がいたら困る。またあの気持ち悪い目で見られたら、と思うとぞっとする。  ――でも平日の朝なら、いないかも。  それに、月島スポーツプラザに行かなくなってから一年以上経っている。ふつうに考えたら、あの男も諦めて来なくなっているかもしれない。そうに違いない。  速人は前向きに考えることにした。奴は来ていない、と。 『あるよ。そこに行く』  一応智に返信すると、『あるならなんで、渋谷まで来てるの?』と質問が返って来た。  彼が不思議がるのは当たり前だ。  速人は返事を返さなかった。  智とは渋谷の区営プールで出会った。月島スポーツプラザに行けなくなったので、代わりを探していたときに、渋谷なら近い方だと試しに行ってみたのだ。そこで一人で泳いでいる智を見かけた。フォームが悪く、息継ぎもぎこちないのを見かねて、速人が声をかけたのだ。泳ぎ方を教えようか? と。  もともと速人は人見知りをする方だし、面倒見も良くない。なぜその時、智に声をかけたのか――。  今思うと、自分は寂しかったのかもしれない。一人暮らしを始めてからは仕事以外で喋る相手は皆無だった。大学時代の友人とも疎遠になっている。  智を見たとき、自分と同じぐらいの年齢だと予測し、実際同い年だった。  話が合うし、何といっても彼は、速人に対して変な目つきをしてこない。安心して一緒にいられる。 『なんて所? 俺も今度行こうかな』  智のメッセージを読んで、速人は口端を緩めた。嬉しいことを言ってくれる。 『来なよ。きれいな施設だよ。プールも空いてるし』  既読になるのを待たずにスマホをスポーツバッグに入れ、普段着を身に着けた。  十分後、速人は月島スポーツプラザのエントランスに着いていた。  券売機でチケットを買い、地下二階に下りる。  無人のロッカーに入り、逸る気持ちでスイムパンツに着替えた。ゴーグルを手に持ち、温水プールのドアを開ける。  プールには先客がいた。一番奥のレーンで、男がクロールで泳いでいる。スピードがかなり速い。  速人はその場に佇んだまま、彼の泳ぎに注目した。腕がまっすぐに伸びていてフォームが綺麗だ。息継ぎも自然だ。スピードが落ちない。  ――カイトみたいだ。  速人はプールサイドに近付いた。心臓の鼓動が速くなる。興奮している自分がいる。 「カイト」  思わず呟いていた。  端壁に到着した男が、顔を上げた。  速人は息をのんだ。男はもちろんカイトではなく、黒木だった。  彼も速人の方を見た。黒木の露わになっている額の筋肉が動いた。驚いたみたいに。  ゴーグル越しでも彼の目は鋭い。でも口元は緩めて「観月さん」と声を掛けてくる。低音の通る声だ。  ――声までカイトみたいなんだ。  初めて会ったときからそう思っていたが、プールでこの声を聞くと。  懐かしい。懐かしすぎる。  自分で作って、自分で消した存在だ。なのに、いないと寂しかった。 「黒木さん、おはようございます」  何とか声を絞り出した。喉がカラカラに乾いていた。 「さっそくここで泳いでいるんですね」  速人は笑顔を作って、ゴーグルを着けた。彼がいるレーンの隣に足から入った。水の感触が心地いい。全身が満たされたような、充足感。やはり自分はプールが好きだ。カルキの匂いも。 「観月さんはここで泳がないって言ってた気がするけど」  黒木が意地の悪い目で見てくる。 「渋谷のプールがやってなかったので」  速人は水中で軽くストレッチをしてから、泳ぎ始める。クロール。肘をしっかり伸ばして腕を振り下ろす。両足の親指同士を触れ合わすようにして水中をキックする。  泳ぎ方を意識しているのは始めだけだ。体が勝手に動き出す。水との戯れに全身が湧きたつ。  一往復して端壁で止まる。立って顔を上げた先に黒木がいる。  彼がゴーグルを外して、速人を見下ろしてきた。身長差は十センチ、いや十五センチあるんじゃないかと思う。 「泳ぐのうまいね」  彼からお褒めの言葉を賜って、つい嬉しくなった。 「黒木さんの方が上手じゃないですか。スピードも速い」  速人も素直に誉め言葉を口にした。  ふと、速人は自分たちの距離が近いことに気がついた。手を軽く伸ばせば、彼の腕に触れられる。筋肉質な男らしい腕。ぼんやりとそこを見ていると、パシャン、と水音が立った。速人は我に返って顔を上げた。 黒木が速人を見つめている。切れ長の目でじっと見られ、速人は落ち着かない気分になる。いやらしい目というより、眼差しが熱いような。 速人は小さくかぶりを振って、プールの縁に手を置いた。 なんとなく変な雰囲気。怖くなる。 「観月さん」  声を掛けられたと同時に、右の手首を掴まれる。体が勝手にビクリと震えた。  動揺を隠し、速人は彼を振り返った。 「なんですか」  意識して明るい声を出す。 「競泳しようか」 「いいですよ」  速人の返事に、黒木は気をよくしたようだ。口元に笑みが浮かぶ。  明るい笑みではない。昏い笑み。
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