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 十二月十五日、火曜日。朝の七時。  速人は一番乗りで、月島スポーツプラザのエントランスドアを通り抜け、券売機でチケットを購入し、地下二階のプールに向かった。  更衣室で服を脱ぎ、あらかじめ穿いていたスイムパンツ一枚の姿になる。キャップとゴーグルを装着したところで、出入口の方から「観月」と呼ばれた。  速人は顔を上げて笑う。 「黒木さん、おはようございます」  このシチュエーションは何度目だろう。五回目、六回目ぐらいか。 「今日も一番か。早いね」  黒木がふっと笑った。そうだ、あの彼が笑ったのだ。  速人はすぐにプールには行かず、黒木の近くに留まった。  黒木は今日も薄着だった。グレーの長袖Tシャツに、黒いジーンズ。 「寒くないんですか?」  速人は遠慮せずに聞いた。 「寒いに決まってるだろ」  呆れたように黒木が苦笑した。じゃあなんで薄着なのか。速人は家からここまで普通にコートを羽織って来た。 「服を着こむのが好きじゃない。だから寒いのを我慢してるんだ」  泳げば温かくなるしな、と黒木が付け加える。 「ああ、それは分かります。重ね着すると袖が捲れちゃいますよね」  たしかに気持ち悪いかも、と共感しながら、速人は黒木の顔をそっと窺う。  相変わらず目つきは鋭いが、口角が持ち上がっているせいか。出会った頃よりは険が取れてきた気がする。笑う回数も増えたし。  なにより――。 「ほら、行くぞ。ぼんやりするな」  水着姿になった黒木が、速人の後頭部を軽く叩いてきた。友達同士がじゃれ合うような、安心できるスキンシップだ。  意味深な目つきで速人を見てくることもなくなった。  ――いや、最初からそんな目つきはしてなかったのかも。  知り合ったばかりの人に対して、自分は必要以上に警戒する。速人にはその自覚があった。  シャワーを軽く浴びたあと、二人は並んで無人のプールまで歩いた。この時間は、監視員が常駐していない。 「観月は年始の休みっていつからなんだ?」  黒木が気軽に訊いてくる。 「十二月二十八日から一月五日までです」 「けっこう長いな」 「店を開けても人が来ないですから」 「まあそうだろうな」  真面目にストレッチをしてから、プールの端に立つ。黒木も隣のレーンに立った。競泳してくれるらしい  速人は彼と競って泳ぐのが好きになっていた。楽しい。一人で泳ぐよりずっと。 速人は「せーの」と声を掛けて、水面に飛び込んだ。二人分の水が弾ける音。 平泳ぎで、反対の端壁を目指す。本気で泳いでも、隣で泳ぐ男は、容赦なく速人を引き離していく。  また今回も負けだ。  ゴールに着いたあと、速人は水中から顔を上げ、呼吸を繰り返した。  先に到着していた黒木が、黄色いコースロープを持ち上げて、速人のレーンに入ってくる。 「休憩」  黒木が速人の頭を軽く小突いてくる。けっこう手荒な所がある男だ。気にならないが。  彼が先にプールの端に座ってゴーグルを取った。と思ったら、ゴーグルを外したばかりの速人に向かって、ばしゃっと水をかけてきた。もろに顔に当たった。 「何するんですか」  子供っぽい行動に、速人は呆れながら笑った。ギャップが凄いと思う。黒木がこんなことをする人だとは思わなかった。  黒木の隣に座って、なんとなく水面をつま先で蹴った。 「黒木さんは冬休み、いつからですか」 「観月と同じ」 「そうですか。実家に帰ったりするんですか」 「今回は帰らない。観月は?」 「俺も帰らないかな」  両親には合せる顔がない。そういえば、と速人は思い出した。三週間以上前に、母から連絡があった。事務的なメール。『転送するのが面倒だから、早く郵便局に転居届を出してくれ』と。ネットでも申請できるみたいだし、今日のうちにやっておこう。  ふいに黒木が速人の顔を見た。 「お前、睫毛が長いな」 「そうですか?」 瞬きをして彼を見上げると、睫毛に留まった水滴が、つっと頬に落下して弾けた。 「長いよ」  黒木が目を伏せて静かに笑った。大人っぽくて格好良い表情だ。彼は端正な顔をしていると思う。自分とは違うタイプの顔の造り。キリっとした男らしい眉、切れ長だけど二重で鋭く輝く目。こういう顔に生まれたかった。  カイトと同じ顔――自分の理想の顔だ。体だって。 「黒木さんていつもどんなもの食べてるんですか。リーマンなのに良い体しすぎ」  ちょっと砕けた口調にする。彼に「タメ語で良いよ」と言われているし。黒木も速人のことを苗字で呼び捨てにしてくるのだし。 「別に普通だよ。鶏のササミと生卵なんて食ってない」  彼の言葉に、速人はぷっと笑った。黒木は面白いことも言えるのだ。 「今度食べにくる?」 「え?」 「俺の食事が気になるんだろ? うちに食べに来いよ」 「え、あ、それは――」  速人は歯切れが悪くなった。断りづらい。せっかく明るい雰囲気になったのに。 「無理です。ごめんなさい。お客様とプライベートで会うのは社則で禁止されてますから」 「そう。残念」  鼻歌を歌うように彼が答えた。さほど残念そうには見えない。  ――俺はちょっと残念。  黒木の部屋に興味が湧いてしまった。どんな家具を置いているのだろう。カーテンの色は? 拘りとかあるのだろうか。  少なくとも、自分の部屋よりはマシだろう。 「ごめんなさい。せっかく誘ってくれたのに」  もう一度謝ると、黒木が小さく笑って、速人のスイムパンツを引っ張った。ウエストの部分だ。えっ? と思ったときには、中を覗かれていた。 「なに、パイパン?」  黒木が喉で笑う。 「今日剃ったばっかりなので。黒木さんも剃ってるでしょ?」  黒木も競泳用の水着だ。剃らないと毛がはみ出る。 「多少は剃るけど、整えるぐらいだろ。お前みたいに全部は剃らないよ」 「そうだけど。整えるってぐらいだと、マメに剃らないといけないから」  陰部が空気に触れている。落ち着かない。 「手、もう離してください」  速人が言ったと同時に、黒木がスイムパンツを思いっきり引っ張って、手を離した。パチンと痛そうな音がする。実際痛かった。日焼けをした肌を遠慮なく擦られたような、熱い痛みが皮膚に走る。 「痛いですよ」  軽く黒木を睨んだ。でも全然怒ってはいない。むしろ嬉しかった。  ――カイトにもやられたことがあった。  こういう感じが良い。お互い大人でも、子供みたいにたまにじゃれあえるのが、楽しくて。  二人は休憩を終わりにして、自分のペースでそれぞれ泳ぐことにした。八時には施設を出て、「じゃあまた」と言い合って別れた。  具体的な約束はしない。あくまで偶然会って、一緒に泳ぐスタンスだ。これなら社則の違反にならない。
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