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十八時になったところで、速人は接客フロアの自動ドアをオフにした。照明も消して、バックヤードに移る。と、事務の牧田がいつもの端っこの席から「お疲れさまです」と声を掛けてくれた。速人は挨拶を返す。
「二人は?」
営業の内城と久保坂が席にいない。
「さっきまでいましたよ。タバコ吸いに行ったんじゃないですか。あの二人、ほんと不真面目ですよね」
牧田がプンプンしながら言った。速人は苦笑を返すだけに留める。一応二人とも速人の先輩だ。一緒になって文句を言うわけにもいかない。五十代後半の店長は、他の店舗も掛け持ちしているため、あまり『ファーストリビング月島』には顔を出さない。それが原因で、職場の士気が下がっているし空気が緩い。だが、それを改善しようという気力が速人にはなかった。
――長く続けたいって感じでもないんだよな。
仕事にそれほど不満はないが、遣り甲斐もあまり感じていない。転職活動が面倒だから続けているだけだ。
もともと、不動産賃貸業にも、営業職にも興味がなかったのだ。他に速人を採用してくれる企業がなかったので、諦めてここに就職した。就職浪人だけは避けたかったのだ。
でも入ったからには頑張りたい。内城たちみたいに堕落するつもりはない。
牧田はすぐに帰ってしまった。速人は自席で作業を始める。
店を閉めても、やらなくてはならない仕事が沢山あった。付き合いのある大家数名から物件の問い合わせを行う。日中撮影した空き物件の写真を編集してホームページにアップロードする。明後日のスケジュールの調整もする。その間に、タバコ臭を漂わせて喫煙ルームから戻ってきた営業二人は、へらへら笑いながら帰っていった。
二十時を過ぎたところで、速人はノートパソコンを閉じた。自然と鼻歌を歌っている。明日は休みで気分が良かった。が、鞄を持って席を立とうとしたとき、店の電話が鳴った。思わず舌打ちしてしまうが、出ないわけにもいかない。
三コール目で出て社名を言うと、「観月さん?」といきなり聞かれた。ドキリとする。声ですぐに誰だかわかった。
「黒木さん、ですか」
「ああ、黒木だけど」
低い声に、鼓膜が震えた。
「なにかありましたか」
「部屋の鍵が壊れたみたいだ。ドアが開かない」
「え」
速人は疲れている頭をフル回転させた。これは結構なトラブルだ。時間外の仕事をしたくない、なんて言っている場合ではない。黒木も非常に困っているだろう。声は切羽詰まった感じではないが。
「わかりました。今からスペアキーを持って部屋に伺います」
「お願いします」
電話を切ったあと、速人は急いで店の戸締りをして、小走りになって『ブルーム月島』に向かった。
電話が来てから十分後にはマンションに着いた。102号室まで歩いていくと、ドアの前で黒木が立っている。
彼はダークグレーのスーツを着ていた。ひと目でブランドものだと分かる。量販店で安売りしている物とは全然違う。シルエットが良いし、生地の質も良かった。素直に、スーツ姿の黒木は格好良いと思った。
黒木は「早かったな」と笑って言った。
「スペア持ってきました。今持っている鍵を貸していただけますか。もう一度俺が試してみます」
本当に壊れているのか確認しなくては。
彼からカードキーを受け取り、鍵穴に差し込む。と、カチッと音がして、手ごたえがある。ドアのハンドルを掴んで押すと、ふつうに開いてしまった。
「あれ? 開きましたよ」
黒木の方を見ると、彼は「おかしいな」と首を傾げた。その仕草にわざとっぽさを感じた。自分は騙されたのかもしれない。
「良かったですね。壊れてなかった」
腹が立ったのは一瞬だった。怒りが持続しない。ちょっと困ったように笑う黒木は、いつもより子供っぽい。
「じゃあ、俺はこれで」
会釈して去ろうとすると、「待てよ」と声をかけられた。強い力で上腕を掴まれる。
引き寄せられ、黒木の胸に速人の鼻が掠った。ドキンと胸が鳴る。
「夕飯食べて行けよ」
「え」
見上げた先には、目を細めて笑う黒木の顔がある。
「あ――でも、プライベートな交流は」
「バレなきゃ平気だろ。誰も見てない」
速人の言葉に被せるように、黒木が言い切る。掴まれた腕が痛い。更に断ったら、二度と誘ってもらえない予感がした。
――それは嫌だと思ってしまった。
「じゃあお言葉に甘えて、御馳走になります」
言ったあと、なぜか気恥ずかしくなった。
「入れよ」
腕を掴まれたまま、部屋の中に引っ張り込まれる。黒木が玄関のドアを閉め、鍵を掛けた。
――本当に良いのか、こんなことして。
自分の行動に自信が持てない。間違ったかもしれない。でも。
「早く靴脱げよ」
すでに靴を脱いで、廊下を進む黒木が振り返ってくる。その目が蔭りを帯びている。
――気のせいだ。
照明の加減で、そんな風に見えただけ。
「お邪魔します」
速人は三和土で靴を脱ぎ、黒木の後を追った。
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