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入居二週間しか経っていない部屋は、すべてが新品のようで光り輝いていた。最初に通された洗面所はスクエア型の洗面台で、朝シャンできる大きさ。化粧台には真ん中に曇りのない鏡が張られ、その両側にはポケットが二つずつ備わっている。右側に、黒木の歯ブラシや歯磨き粉、シェービングクリーム、洗顔料などが入っていた。
洗面台の横にはドラム式の洗濯機、上には木製の棚が取り付けられている。フェイスタオルやバスタオルがきちんと畳まれて積んであった。フェイスタオルを一枚拝借して、手を拭いた。
先に手洗いうがいを済また黒木は、キッチンで料理をしてくれている。
彼の広い背中が小刻みに震えている。包丁を叩く音。なにか刻んでいる。
暖房をつけたばかりのリビングまで歩いた速人は、黒木の横顔をぼんやりと眺めて佇んでいた。
「すぐできるから座ってろ」
調理をしながら、彼が背後を指さした。
そこには正方形の無垢ウォールナットのダイニングテーブルに、ダイニングチェア二脚が収まっている。シンプルだけどお洒落なダイニングセットだ。
「じゃあ、失礼します」
速人は大人しく、ダイニングチェアに腰を下ろした。座面がブラックの皮張りだ。座り心地が良い。
天井を見上げると、埋め込み式のオレンジ色のライトが淡い光を放っている。左右にはシーリングライトから白光が。向かって右側の壁には、シックな木製のチェストが置かれている。
――どれも高そうだな。
見るからに金持ちそうだ。勤め先が大企業ということもあるだろうが、まだ彼は二十七歳だ。年齢の割に、部屋のインテリアが高いような気がした。
前方を見ると、作業をしている黒木の右横に彼より少し低い黒い冷蔵庫がある。
引っ越し間もないこともあってか、物が極端に少ない。贅沢な空間の使い方だ。
隣の部屋は見えない。ドアが閉まっている。
黒木が小さいボウルで何かをかき混ぜている。タレの類だろう。ザーッという水の流れる音がしたあと、ヒュンヒュンと水を切る音がした。それから数分後、黒木がテーブルに料理を並べた。
黒木はワイシャツ一枚で腕まくりをしていた。ネクタイは緩めてある。
「食べようか」
速人は目の前の御馳走に、食欲を刺激された。丼ぶりの中には白飯、ローストビーフ、真ん中に卵黄がのっけてある。焦げ茶色のタレからはニンニクのこってりした匂いがする。
「ローストビーフ丼だ」
「美味しそう。いただきます」
速人は両手を合わせて、箸を取った。
丼ぶりの横に並べてあるサラダも、彩りが鮮やかだった。ミニトマトに、サラダ用の細切りチキン、きゅうり、レタス。シーザードレッシングをかけてある。
黒木も座って、「いただきます」と言ってから食べ始めた。
ローストビーフ丼を一口食べたら箸が止まらなくなった。柔らかい牛肉の食感、しっかりした下味。噛むとじゅわっと旨味が舌に染み込んだ。卵黄との相性も良い。
「生卵は食べないって言ってたのに」
速人はくすっと笑った。今朝の会話を思い出したのだ。
「今日はたまたま、だな。肉と合うだろ」
「はい」
二人が半分ほど食べてから、会話が弾むようになった。
「観月はなんで今の会社に就職したんだ?」
「とくに理由は……採用してもらえたから入った感じです」
速人は正直に答えた。仕事に対するこだわりも志もなかった。
「大卒?」
「はい」
「どこの大学?」
「S大です」
「頭良いじゃん」
意外そうな目をされ、ちょっと傷ついた。良い大学を出た割に、就職先はパッとしない。就活をもっと頑張っていれば、黒木ほどではなくても名の通った企業に入れたかもしれない。
「頭悪そうに見えましたか」
わざと拗ねた声を出した。
「悪そうには見えないけど。S大を出ているとは思わなかった」
「黒木さんは?」
「K大」
嫌がらずに黒木も答えてくれる。
K大。S大よりランクが上だ。学力、親の経済力共に備わった人間しか行けない大学。
黒木と自分では住む世界が違う。そんな気がする。
それでも黒木との、とりとめのない話は面白かった。もしかしたら、速人に会話のレベルを合わせてくれたのかもしれない。
常に彼は穏やかな相槌を打ってくれたし、速人が分からない話題は一切振ってこなかった。丼ぶりとサラダのボウルが空になったとき、速人はもう少しだけ喋りたい、と思った。話題を探す。
「美味かったか?」
不安なんて微塵もない顔で尋ねられ、速人は頷いた。
「美味しかったです。御馳走様です。あの……」
「何だ?」
「黒木さんの勤め先って日本橋ですよね。前の住所からだとだいぶ遠い。通勤大変だったんじゃないですか」
無難なネタを絞り出した。
「ああ、そうだな。だから吉祥寺の部屋には帰ってなかった」
「そうなんですか」
じゃあネカフェやカプセルホテルに泊まっていたのだろうか。
「適当に女の部屋を転々と」
予想できなかった回答だった。が、言われてみれば納得だった。黒木はルックスが良いし、大企業で働いている。モテて当たり前だ。
「同棲してた彼女が可哀そうですね」
別れて正解だな、と思った。
そして、また安堵した。黒木は女好きだ。男に食指を伸ばしてくることはないだろう。そう自分に言い聞かせる。
「そろそろ帰ります」
速人は席を立った。長居するつもりは最初からなかった。
「ああ、今日は突然悪かったな」
「いえ、ローストビーフ丼、美味しかったですし。鍵も壊れてなくて良かったです」
なぜ嘘でおびき寄せたんだろう、自分を。気まぐれだろうか。変な気まぐれ。
とくに引き止められることもなく、玄関まで二人で歩く。心底ほっとしている自分がいる。
玄関の三和土で靴を履いていると、背後から声を掛けられた。
「土曜日。仕事帰りにここに寄れよ。鍋をやろうと思ってるんだ。一人分だと食材が余る」
「え――でも、そういう約束は」
社則で禁止されていると、何度も言っているのに。
「今更だろ。俺の特製ローストビーフ丼を食べて置いて」
黒木が上がり框に立ったまま、速人の頭を軽く撫でてくる。さっぱりした手の動きは、性的なものを全く感じさせない。
速人は安心して、手の動きを追う。が、すぐに彼の大きい手は離れていった。
「来いよ」
目を細めて黒木が言う。心なしか、さっきより強さのある声だった。
「――じゃあ行こうかな」
予定なんて何も入っていない。何もない部屋でだらだらしているよりは、有意義に過ごせるかもしれない。
次にお邪魔するときは、少し高めの手土産でも持って行こう。デザートが良いか。
「それでは、また」
速人は一礼して、黒木の部屋から出た。
土曜日。四日後だ。
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