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土曜日はあっという間にやってきた。速人は早めに出社して、店の前の通りを、ホウキで掃いた。いつもは牧田がやってくれているが、たまには自分がやろうと思った。
通りに並んだ街路樹は、何の花も咲かせていないし、葉っぱも抜け落ちている。土埃で地面が汚れているので、せっせと掃いて、塵取りに押し込む。転がっている空き缶を一本、ゴミ袋に入れる。
向かい側の通りにある喫茶店の店長が、ガラガラと音を立ててシャッターを開けている。
吐く息は白く、手はかじかんで赤くなる。でも嫌ではない。
「おはようございます」
牧田の声がした。速人は屈ませていた体をまっすぐにして、彼女に挨拶を返した。声が弾んだ。
「今日はご機嫌な感じですか? 鼻歌まで歌って」
嬉しそうに牧田が言った。え? と速人は首を傾げた。そんなに機嫌が良さそうに見えるのか。
「明日休みですもんね。何か予定があるんですか」
「いや、ないけど」
明日はない。今日はある。
牧田と共に店舗に入り、速人は仕事の準備を始めた。
年末になってきて、仕事はだいぶ減っていた。この時期に引っ越しをしようとする人間は少ない。今日は内見の予約が一件入っていたが、客からキャンセルの連絡が入った。飛び込みで来店する客もほとんどおらず、速人は溜まっていた事務処理に精を出した。
十八時に、いつものように自動ドアのスイッチと照明を消し、速人はバックヤードを覗き、そのまま牧田たちに「お疲れさまでした」と声をかけた。今日は定時で帰ると決めていた。
「あれ、早いですね、今日は」
牧田が瞬きをしながら、挨拶を返してきた。まだ席に座っている男二人は、不貞腐れている。速人が先に帰るのが嫌なのだろう。
ぺこりと頭を下げて、速人は非常出口に向かって歩いた。背中に向かって、久保坂の声が飛んできた。
「デートか? ウキウキした顔しやがって」
――違うけど。
速人は言い返さずに、従業員用の出入り口から外に出た。
店の近くにあるケーキ屋で、フルーツゼリーの詰め合わせを買って、速人は足早に、黒木のマンションを目指した。
102号室の前に立ち、インターホンを押すと、すぐにドアが開いた。
「いらっしゃい」
ストライプのシャツを一枚着た男が、迎えてくれる。厚い胸板が強調されている。
「こんばんは。これ、どうぞ」
ゼリーの入った紙袋を両手で渡す。黒木は受け取ってくれたが、口を歪めた。
「ありがとう」
その声に嬉しそうな響きはない。
早く入れと言われ、速人は玄関のドアに鍵を掛け、靴を脱いだ。上がり框に足を載せたとたん、黒木にぐいっと腕を引っ張られる。脱臼するかと思うぐらいの、強い力。ジン、と肩から指先まで痺れが走る。
「黒木さん?」
危険を感じた。速人は腕を振ろうとしたが、ぜんぜん動かない。
黒木が向かったのは、リビングではなかった。玄関入って左にある洗面所に先に入らされ、背後に黒木が立った。退路を断たれた。
「脱げ。風呂に入る」
耳元で囁かれ、速人の首筋は粟立った。額には冷や汗が浮かんだ。
「なんで、急に」
今晩は一緒に鍋を食すのではなかったのか。
「鍋は明日の夜だ」
「え」
じゃあ自分は、約束の日時を間違えたのだろうか。
「俺、間違えました?」
後ろを振り返る。と、黒木がシャツを脱ぎ捨てている。
「合ってるよ。明日は休みだよな?」
うっそりと笑う黒木は、この前会ったときとは別人のようだ。
目には昏い光を帯びている。最近はなかった――性的な興味を持った眼差し。
「困ります、こういうのは」
速人は震えだしそうな体を叱咤して、黒木と壁の間をすり抜けようとした。が、彼が逃がしてくれるわけがなかった。
ウエストに太い腕を回され、動きを止められる。駄目だ。腕力の差が歴然としている。
「そんなに怯えるなよ」
なだめるような声。でも厳しい響きがあった。
「俺は、そんなつもりで来たわけじゃ」
勘違いされたのだろうか。訳が分からない。
「今日来たのは、こうなっても良いと思ったからだろう?」
ぞっとするような怖い、低い声。全身に鳥肌が立った。嫌悪感からではない。この男に抱かれる予感で、体が震える。
「火曜日に来たときは、何もしてこなかった」
だから安心していたのだ。性的なことを黒木はしてこないだろうと。
「あの時抱いたら、レイプになってただろ。嘘を吐いて部屋に来させたんだからな」
一度彼は口を閉じて、速人の首筋を撫でた。そのままネクタイのノットを指で崩してきた。
「でも今日は違う。お前自ら、ここにやって来た」
「だから俺は、こんなことをしたくて来たんじゃなくて」
「俺は最初からお前とやりたかったよ」
もう黒木は隠そうとしていない。声にも目にも劣情がしっかりと現れている。
「お前も俺に気を許している」
それはそうだが。性的な行為を許そうなんて思ってもいなかった。
なおも首を横に振って拒絶する。だが、黒木は手を止めない。速人のワイシャツを床に落とし、己が穿いているジーンズも下着ごと手早く脱いでしまった。
すでにそれは形を変えていた。自分とは違う牡の形状に、速人は後ずさりする。浴室のドアに背中が触れた。
「お前にする、しないの選択はない」
ここまで来たらな、と黒木が薄く笑った。
「俺は優しくない。お前が抵抗したら乱暴に抱くだけだ。下は自分で脱げ」
命令され、速人はのろのろとスラックスのホックを外した。少しサイズに余裕があったから、重力でストンと床に落ちた。
ボクサーパンツのウエストゴムに手をかける。片足を軽く上げて、それを抜き取る。兆していない性器が露わになる。
満足したように黒木が笑い、速人の背後に手を伸ばした。浴室のドアが開く。
二人は浴室に入った。
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