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第10話
七月某日、昼。樹くんのジャケットをクリーニングに出しに行った帰り道、あまりの暑さに近くにあった自販機の前に自転車を止めた。
ミネラルウォーターを購入し、一気に三分の二くらい飲んだ。冷たい水が喉を通っていき、少しばかり暑さがマシになったような気がした。
ペットボトルをバッグに入れて自転車を漕ぎだそうとしたとき、ふと、私の目の前を歩いて通り過ぎて行く女の人の顔が見えた。
「涼風?」
頭をよぎった名前を口に出してみると、相手は私の声に気がつき、こちらに振り返った。
「え……あ、もしかして悠!?」
「久しぶりー! 元気だった?」
たまたま通りかかったのは、私の高校時代の友達の坂宮涼風だった。
薄茶色の髪の毛をお団子にした、とにかく元気な女の子というのが当時の印象だったけれど、どうやらそれは今も変わっていないらしい。
声をかけたのが私だとわかると、この暑いのに目を輝かせて、大きな声でこっちに駆け寄ってきた。
「元気、元気! ってか、ここで悠と会うとは思わなかったし!」
「私だって。涼風、海外に引っ越したって言ってたから」
涼風は大学を卒業後、すぐに年上の男性と結婚した。その一年後には旦那さんの仕事の都合で海外へと旅立って行った。
「帰国してつい最近このあたりに引っ越して来たのよ」
以前に宮下さん一号二号が言っていた「最近引っ越してきた若い夫婦」って、涼風のことだったのか。
「そうだったの。私もこの町に住んでるのよ」
就職して地元を離れて結婚してからはずっとここにいるため、学生時代の友達に会うのはとても久しぶりだ。
「そうなの? それじゃあこれからも会えるじゃん!」
この町で会う人のほとんどが、樹くんと結婚してから知り合った人たちばかりだったので、涼風が引っ越してきてくれたというのはとても嬉しいことだった。
「ところで悠は結婚したんだよね? 仕事続けてるの? それとも今はパート?」
「ううん。今は専業主婦」
その言葉に涼風は目をまん丸にした。そんなに驚くことかな。
「あんたが専業主婦!!??」
「そうよ……」
「嘘でしょ!? まだ画家になったって言われた方がまだ現実味あるわ!!」
「画家は無理だよ。私の学生時代の美術の成績知ってるでしょ?」
中学校から高校まで美術の成績は、五段階評価中ずっと二だった。
「いや、それ以上に専業主婦のほうがありえない。もしかして石油王と結婚したの?」
「んなわけないでしょ」
「だってあんた、昔は結婚しても絶対仕事辞めないって言ってたじゃない」
たしかにそんなこと言ってたような……気がする。
「他人の経済力になんか頼れるか! とか、家にずっといるなんて発狂するわ! とか言ってじゃない」
「ま、まあ……」
実際のところ、樹くんと結婚してからはじめの二ヶ月は時短社員として仕事を続けていた。樹くんは仕事を続けてもいいし、辞めてもいいと言ってくれたので、私は続けることにしたわけだが……。
「悠が仕事辞めてまで結婚する男の顔が見てみたいわ。どんな人?」
どんな人? どんな人か。そう聞かれると、どう答えるのが一番なのかわからなくなる。
何しろ樹くんに関しては言いたいことが山ほどあるのだ。それを一言で相手に伝わるように言うとなると、案外難しいような気がする。
樹くんはかっこいいし優しい、クールだけどたまに抜けてるところもあるし、見てるだけで癒されるし、というか心が洗われるし、胸が苦しくなるし、時々視界にすら入れられなくなるくらい輝いてるし。
まあ、そうね。わかりやすく一言で言うなら……。
「光、かな」
「ひかり?」
「そう光……」
「え? ひかりくんって名前?」
「いや、そうじゃなくて。ウチの旦那を一言で表すなら、光……圧倒的、光……なのよ……」
本当にいつどんなときにどの角度で見ても顔が良いから、そのたびに光でも纏ってるのかなって思うし、さらには性格まで素晴らしいの一言につきるし、ずっと一人寂しかった私の人生に突如差し込んできた光だし、その光を糧に現在心身ともに健康的に日々の生活を送ってるし、この単語が一番しっくりくる気がする。
「あんた……しばらく見ないうちに頭のネジ取れたの?」
若干、涼風の顔が引きつっているような気がするが、見なかったことにしよう。だって事実だし。
「まあ、あんたが幸せならそれでいいけど」
毎日樹くんを間近で見ることができて、そしてその彼が私を好きになってくれた。そう考えるとたしかに私は世界で一番幸せだと思う。
あ、そうだ。せっかくだから 今度から誰かに樹くんのことを聞かれてもいいように、何かわかりやすい一言を考えておこう。
「ま、まあ、また色々話を聞かせてよ」
「うん。涼風もね」
私は涼風と別れて、自転車を漕いで帰宅した。
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