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第110話
公園を出て樹くんと二人並んで歩く。
「早かったんだね」
「うん。あっちは明日仕事だし、俺も眠いし」
「そっか。もしかして駅からここまで歩いて来たの?」
樹くんがご飯に行ったあとに歩いているのは珍しい。電車で行ったのは知ってたけど、タクシーで帰ってくるものだと思っていた。
「ちょっと酔い醒ましに」
「酔い? あ、飲んできたんだ」
珍しいこともあるものだ。樹くんはお酒が苦手だから、普段はほとんど飲まない。
結婚してから飲んでいるのは数えるほどしか見たことがない。
よほど楽しかったのだろう。
などとのんきに考えていたら、家に帰るなり、いきなりソファに押し倒された。
何が起きているのか理解できず、頭は混乱している。
「い、樹くん?」
緊張しつつ樹くんの顔を見ると、いきなりキスをされ、より頭が混乱した。
何? 一体何がどうなってるの!?
酔っているからか? 酔っているせいなのか!?
たしかにこの距離になってかすかにお酒の匂いがすることに気がついた。
つまり飲んだのは一口や二口ではないのだろう。それならこの樹くんらしくない行動も納得できる。
でもさっき眠いって言ってたじゃない!
「もしかして、まだ酔ってる?」
「うん……ちょっとだけね……」
自覚があるなら大丈夫か。よし、なら私はその珍しい樹くんの姿を目に焼き付けよう。
しかし酔っていても顔にはまったく出ないのか。これで実は泣き上戸とか笑い上戸という淡い期待は消えてしまったわけだ。
「ねえ、悠ちゃん」
「ん?」
「俺のこと好き?」
「へ?」
ちょっと待って。これは本当にとんでもないことかもしれない。
樹くんは私に対して「好き」ということはあっても、自分のことを「好き」かどうか聞いてくることはない。
相変わらず表情はいつも通りだが、こんな質問をしてくるということは、お酒の力よって普段とは少し思考回路が変わっているのだろうか。
「好きだよ。樹くんのこと大好き」
と、言うと……
「俺も悠ちゃんのこと好き」
ああ、もう! 何でこんなに可愛いの……そんなに可愛さを全面的に押し出して私をどうするつもり!?
無性に触れたくなって、樹くんの頬に手を伸ばすと、やけに温かい。
これはまだまだ醒めそうにないな。
酔ってるときは水よね、水。私は上体を起こしてソファから降り、キッチンに行こうとした。
が、思い切り腕を引かれ、私は体勢を崩し、後ろから抱き寄せられるようにして樹くんの膝の上に乗ってしまった。
「どこ行くの?」
「あ……水、いるかなって」
「いらないよ」
「え?」
「それよりこっち向いて」
え? 無理無理無理無理! それは無理だよ! だって振り返ったら樹くんの顔が間近にあるわけでしょ?
私が至近距離で鼻血でも出したらどうするの!? たとえ鼻血が出なかったとしても、私の目が耐えられると思う?
かといって、ここで振り返らないという選択肢は存在しない。だって、こっち向いてって言われたんだもの。断ることなんてありえない。
というわけで、慎重に振り返ってみると、当たり前だが樹くんの顔がすぐそこにあって、気を抜くと泡を吹いて倒れるところだった。
危ない、危ない。
何とか意識を保ったまま樹くんの顔を見ると、ばっちりと目が合った。
「悠ちゃん、一人で男の人についてっちゃダメだよ」
「え?」
もしかして私が多崎くんと話していたことを言っているのだろうか。
ついて行ったというか、たまたま多崎くんがそこにいただけなのだが、夜だったし彼とはまだ会うのが二回目だったから心配してくれているのかもしれない。
なんてのんきに考えていると、
「それとも俺のこと、妬かせるつもりだった?」
耳元でそう言われ、一瞬息が止まった。本当に止まった。そして私の思考回路は停止した。
これは、つまり嫉妬……? シット? ジェラシー? ヤキモチ? YAKIMOCHI?
「え、あ……そういうつもりじゃ……」
心配させたことは非常に申し訳ないが、正直なことを言えば、樹くんが嫉妬しているところをもっと見たいという、やましい感情がふつふつと湧き上がってくる。
だって夏樹さんのときみたいに至近距離で話していたわけでもないのに。
樹くんって、もしかして結構嫉妬深いのかな。
それは私としては大変喜ばしいことなので、何の問題もないが。
「ねえ、あんまり心配させないで」
声がいつもより弱々しい。
「ご……ごめんね、心配かけて」
私がそう言うと樹くんは小さく頷いた。
っか、か、くわっ……可愛い……!
たとえこれがお酒の力による一時的なものだとしても、こんな樹くんを見ることができたのは涙が出るほど嬉しい。
樹くんには申し訳ないが、今日一日、一人で寂しかったことが嘘みたいに、私の気持ちは幸せでいっぱいだった。
でも、あまり心配をかけるのも悪いので、できるだけ気をつけようと心に誓った。
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