第112話

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第112話

 眠れなくなってしまった。  もうびっくりするくらい目がぱっちりとしていて、眠気はまったくない。  何しろ明日からゴールデンウィークがはじまるのだ。  明日は一日家でのんびりするが、明後日からは樹くんと二泊三日の旅行をする。正確に言えば明日はのんびりというか、旅行の準備なのだが。  考えれば考えるほど頭が冴えていき、目が冴えていく。  だって、樹くんと旅行だよ。泊まりがけの旅行は新婚旅行以来だ。楽しみすぎて、それはそれはもう楽しみすぎて、眠れなくなってしまった。  何度も目を閉じてみるが、まったく眠気に襲われる気配がない。  一回ホットミルクでも飲むか。  隣のベッドで眠っている樹くんを起こさないようにそっと寝室を出て、一回のキッチンに向かう。キッチンの灯りをつけて、マグカップに牛乳を入れる。電子レンジで温めてそれを飲む。  それにしても眠れる気がしない。考えなければいい話なのだが、無理な話だ。 「だって……」  だって……とんでもない予定を組んでしまったからだ。  普段は見ることができない樹くんのあんな姿やこんな姿を妄想していると、それがどんどん頭の中で広がっていく。  ダメだ……考えただけでもニヤニヤが止まらない……  って、だからそうじゃなくて、眠りたくてここに来たのに、せっせと頭を働かせてどうする。  ここで生活リズムが狂うと、旅行当日に影響が出るかもしれない。眠気に襲われて旅行を楽しめないなんてことは、絶対にあってはならないのだから。早く寝るのよ、私。 「はあ……」  と、自分に言い聞かせても全く眠気が来る気配はなく、思わずため息が出た。 「悩み事?」  突然聞こえてきた美声に心臓が一瞬止まった気がした。 「い、樹くん!? どうしたの? こんな時間に」  完全に寝ていると思っていたのに、まさか起きていたのだろうか。もしくは寝室を出る際に起こしてしまったのか? 「部屋が乾燥してるみたいで、水飲みに来たの」  なんて、デリケート! たしかにいつもより乾燥してる気はしたけど。 「あ、じゃあ、加湿器つけるね」  樹くんの美声を守るために加湿は大変重要である。 「それより悠ちゃんこそどうしたの? ため息ついて」  あ、まずい。聞かれていたのか。あのため息に深い意味はない。というか、妄想を繰り広げ過ぎて眠れなくなってしまって自分に対するものだ。  しかし樹くんはそうは捉えていない様子。あと、頼むからこんな薄暗い状況でそんなに距離を詰めないでください。より一層目と頭が冴えてしまいます。 「嫌なことでもあった?」  違う。違うんだよ。嫌なことなんかこれっぽちもないんだよ。むしろ毎日幸せすぎるくらい。  だが、言えない。旅行が楽しみすぎて眠れないなんて、やましいことを考えすぎて眠れないなんて言えない。言えるわけがない。 「ううん……嫌なことなんてないよ」  事実なのに嘘っぽく聞こえてしまうのは自分でもわかった。  こんな時間に一人でホットミルクを飲みながらため息をついていたら、そりゃ誰だって悩んでいるように見えるだろう。  しかしどう言えば信じてもらえるのか。 「しんどいときは言って」  まずい。これは本当にまずい。このままだと何を言っても誤解は解けそうにない。  樹くんは私が何が悩みを抱えていると思い込んでいるから、きっと適当なことを言っても意味がないだろう。  どうする? どうすればいい? 言うしかない? 本当のことを言うしかない? もうそれしか方法はないの? 「あ、と……だから違うの……その……」 「?」 「えっと……実は……明後日の……りょ、旅行が楽しみで……眠れなく、なっちゃって……」  言うしかなかった。 「え?」  あまりの恥ずかしさに樹くんの顔が見れない。何しろ事実だから。  肝心のやましい妄想についてはさすがに言わなかったが、それでもやっぱり恥ずかしい。  何より結婚して一年も経つのに夫婦で旅行するのが楽しみすぎて眠れないなんて、もしかしたら引かれるんじゃないかという可能性も考えていた。 「そうだったの。悠ちゃんに悩みがないなら良かった」  やめて……そんな純粋で優しい言葉をかけないで……私はただ樹くんの普段見れない姿を妄想して…… 「ああ、そういえば前からずっと言ってたもんね」 「ん? 何が?」   「京都行ってみたいって」  ……そっち!? いや、たしかに京都に行ってみたいとは前から言ってたけども!  それはそれで楽しみにしてるけども!  もしかして京都に行くのが楽しみ過ぎて、眠れなくなった女だと思われたのか? 「俺も行ったことないから楽しみ。でもせっかくだから早く寝ないとね」   樹くんは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに入れて飲んだ。  結果オーライ。と、でも言うべきか。とにかく誤解が解けて良かったし、何より肝心なことがバレなくてホッとした。  正直、まだ眠れそうにないが、私はダッシュで歯を磨き直し、樹くんとともに二階に戻った。
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