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第114話
旅館はとても雰囲気がよかった。ザ・京都という感じで、ここを予約して良かったと本当に思う。
荷物を置いて一旦休憩。
「お茶入れるね」
あらかじめテーブルに置いてある急須でお茶を入れ、一緒に置いてあるお菓子を食べる。
それから夕食までの温泉に入ることにした。浴衣とタオルを持って二人で温泉に向かう。
「じゃあ、あとでね」
「うん」
樹くんと別れて女湯に入る。それはもう最高中の最高だった。やっぱり家のお風呂とは違うよね。
のんびりお湯に浸かり、決めていた時間に上がる。浴衣に着替えて出ると、樹くんがすでに近くのマッサージチェアに座っていた。
浴衣姿ってやっぱりいいなあ。色気が。
それから二人で部屋に戻る。夜ご飯は部屋に運ばれてくるらしい。
「いただきます」
数えきれないくらいの料理がテーブルに並んでいる。仲居さんはとても親切だし、目の前には浴衣に姿の樹くんがいる。
これ以上ない幸せだ。
夕食後、売店に行こうという話になり、部屋を出て二人で一階に向かった。すると、どこからか軽い球を打つ音が聞こえてきた。
「あ、卓球やってる」
よく見ると売店の近くに卓球ができるスペースがあり、親子連れやカップルが卓球を楽しんでいた。
温泉といえば卓球だよね。
……ところで、樹くんって卓球はできるのだろうか。
一度気になったら、止められない。
そもそも運動ってどれくらいできるんだろう。一緒にジムに行ってはいるが、運動神経の良さはよくわからない。
……以外と苦手だったりして。
待って、それは可愛い! 球を追いかけてる樹くんとか、ラケット振って空振りするところとか見たい。とても見たい! 苦手かどうか知らないけど。
「卓球、したいの?」
「あっ……うん。楽しそうだなって」
「じゃ、やろっか」
樹くんが空いている卓球台に向かって行くので、慌ててあとを追いかけた。
やりたいと思ったのはいいものの、私自身、卓球なんて高校の体育の授業以来である。
当時はそこそこできていた気がするけど、今はどうなのだろう。
「サーブ打って」
と、言われたので私からサーブを打つことにした。
「じゃあ、行くね」
ポン、といい音を立てて球は向こうの台に入る。
で、樹くんを見ていると、ものすごく素早い球を打ってきた。
早っ! え、もっとこうふわっとした感じだと思ってたのに。
驚きつつも返球すると、さらに向こうからも返ってきたので、そのままラリーを続けることになった。
それでも五、六回続いたら終わるだろうと思っていたが、全く終わる気配がない。
スマッシュを決めて一点取りたいところだが、そもそもスマッシュを打つことができない。
……ってか、強くない?
想像以上に隙がない。
顔も良くて性格も良くて、おまけに運動神経もいいって何事!? 天は一体樹くんに何物与えたのだろうか。かっこいい。
しかも私はラリーを続けていくうちに息が上がってきているが、樹くんはそういった様子はまるでない。
だが、諦めたくはない。何しろ昔からスポーツに関しては負けず嫌いなのだ。たとえ相手が樹くんであっても、先に点を取りたい。
もはや総得点の問題よりこの一点のほうが重要だ。
「姉ちゃんがんばれー」
「いけー!」
「お兄ちゃんも頑張って!」
私がサーブを打ってから一体何分経っただろう。
いつまでも終わらないラリーに、知らないうちに見物人が増えていて、知らないうちに応援されていた。
負けたくない。この一点は絶対に私が。と、必死で食らい付いていると……
ある重大なことに気がついてしまった。
……樹くんの浴衣、はだけてきてない??
激しい動きをしているわけではないが、右へ左へと飛んでくる球を返しているせいか、浴衣が少しずつはだけてきている。
と言っても鎖骨が見えかけている程度なのだが。それでもまずい。これは非常にまずい。浴衣というだけでも破壊力がすごいのに、これ以上色気を振りまいてどうするつもりなのか。
しかもこんな大勢の前で!
勝ちたい。でも浴衣が気になる。点を取りたい。でも浴衣が気になる。負けたくない。でも浴衣が気になる!!
ダメだ……これ以上続けると、本当に大変なことになってしまう。でも……やっぱり……
負けたくない!
と、最後の力を振り絞るようにしてスマッシュを打った。
しかし樹くんはそれを何なく返球した。おまけに強いスマッシュを打ち返した反動で、さらに浴衣がはだけた。
その瞬間、私の思考と体が停止した。
球がバウンドして床に転がっていくが、私はそれを拾いに行くことすらできなかった。
見物人たちは決着がついたことに盛り上がっているようだが、その声すらもほとんど耳に入ってこない。
「悠ちゃん?」
気がつくと目の前に樹くんがいて、それはもう頭と体が沸騰するかと思った。
「楽しかったね」
卓球場を出て二人で部屋に戻る。
「うん……」
私はエレベーターの中で樹くんの浴衣の前をぎゅっと直した。
独占欲が出ているみたいで恥ずかしかったけど、直さずにはいられなかった。
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