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第116話
舞妓体験という楽しみを終え、残す大イベントがついにはじまった。
それはもう緊張云々を通り越して吐きそうである。
しかし気をしっかり持たなければいけない。何しろ今は旅行中であり、ここは家ではなく旅館の中なのだから。
「大丈夫。いつも通り。平然としてなきゃ」
自分に言いかせるように小声で言う。
よし、行くぞ!
気合いを入れてドアを開けた。
真っ先に樹くんと言う名の輝きを目にして、危うく視力を奪われるところだった。
そう、今日は温泉を貸し切っている。といっても、貸し切り専用の温泉で混浴可能であり、昨日入ったのとはまた別である。
個人的な温泉の唯一の難点は男女別であることだ。せっかく樹くんと来ているのに、温泉に入るときだけは別々になってしまう。
でもせっかくなら二人で温泉を楽しみたい。一緒に入りたい! ということで今回はこの貸し切り温泉を予約をした。
が、やはりこれは失敗だったかもしれない。いや、失敗どころか大成功なんだけど、もうこの時点で私の心臓はすでに限界である。
「悠ちゃん」
名前を呼ばれて自分が立ち止まっていたことに気がつき、すべらないようにゆっくりと歩く。
樹くんはすでに温泉に浸かっているが、鎖骨あたりの白い肌ははっきりと見えている。
目のやり場に困るって! 混浴温泉に入りたいって言ったの私だけど!!
「温かいね」
かけ湯をしたのち私が隣に座ると、樹くんがこちらを向いて言う。
「うん……」
ダメだ……刺激が強すぎる。
一緒にお風呂に入ることは家でもあるので、まあ大丈夫だろうとたかを括っていた。
やはり想像と現実は比べ物にならないし、家と温泉とでは違った緊張がある。
「来てよかったね」
「うん……」
やばい。何を言われても「うん」しか言えない。それ以外に言葉が出てこない。
「どうしたの?」
「え、あ……ほら、温泉に浸かってると、なんだかぼうっとしちゃって」
「気持ちいいもんね」
できるだけ夜空を見上げて話すようにすると、だんだん緊張がほぐれてきた。
夜風が吹くと気持ちいいなあ、と思えるくらいには。
「今日はありがとうね。舞妓体験一緒に来てくれて」
旅行の行き先を京都に選んだのも、舞妓体験をしたいと言ったのも、この混浴温泉に入りたいと言ったのも、すべて私からだ。
特に舞妓体験に関しては私がやりたいというだけで、樹くんは和装をしたいなんて一言も言っていなかった。
それでも一緒に参加してくれたことが嬉しい反面、自分のやりたいことに付き合わせすぎた気がしていた。
「一緒に来れてすごく楽しかった」
そう言うと、樹くんの腕がスッと伸びてきて、軽々と引っ張られ、そのまま後ろから抱きしめれるような体勢になった。
「ちょっ、樹くん!?」
せっかく緊張がほぐれてきたのに!
「大丈夫、誰も来ないから」
いや、そういう問題じゃないから! 人がいるとかいないとかの問題じゃないから! 私の頭の問題だから!
温泉に入っているだけだというのに、全身がパンクしそうだ。
「俺はね、嬉しいんだよ」
「え?」
後ろから聞こえる樹くんの真剣な声に、少しだけ頭が落ち着いてきた。
「悠ちゃんが一緒にやりたいこと言ってくれるの」
ーー俺、悠ちゃんと結婚してあげたんじゃなくて、悠ちゃんだから結婚したんだよ
一年以上前、あの公園で逆プロポーズのようなことを言っておきながら、結婚当初はとにかく、こんなイケメンが結婚してくれるなんて! という気持ちが強かった。長い間、結婚願望なんてなかったくせにね。
たぶんそれが全面的に私の言動に出ていたのだろう。結婚して半年を過ぎたころにそう言われた。
ーー俺に遠慮しないで
結婚から一年以上経って、少しはマシになったつもりだったし、そんなつもりもなかったけれど、樹くんにはまだ私が遠慮しているようにみえていたのか。
自分が思うと相手から見るのでは違うものだよね。
でも、一緒に暮らしはじめてもう一年以上経つ。そろそろ夫婦として家族として、私も、もっと……
「だから、もっと甘えて?」
いや、ごめんなさい。無理です。そんな後ろからささやき声で言われて、きちんと頭が回るはずがないじゃないですか。
ただでさえ、混浴という状況で私の頭は半分くらい動いていなかったのに、さらに追い討ちをかけてきてどうする。
結局、動かない頭ではうまく返事をすることができず、おまけに抱きしめられたままで、混浴温泉でのんびり過ごすという旅行前に妄想していたものとはかけ離れた時間を過ごすことになった。
そして温泉の熱さと樹くんの言動のせいで、のぼせてしまった。
部屋に戻ってから樹くんがうちわで扇いでくれた。
「大丈夫?」
「うん。さっきより……」
しばらくして体が冷えてきたので、大丈夫だろうと思ったのだが、そのタイミングで樹くんが至近距離で顔を覗き込んできたせいで、再び全身が熱くなった。
「さっきより?」
……言うまでもなく、悪化した。
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