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第122話
桧原悠。二十七歳。現在、幸せの真っ只中……正確に言えばこれから幸せの真っ只中に足を踏み入れるところである。
運も実力のうちというが、本当に運良くここに来ることができた自分を褒めたいくらいだ。
「嬉しそうだね」
「うん! だって前から楽しみにしてたし」
「そうだね。じゃあ、行こうか」
私と樹くんは席を立ち、さっそく目的のものを取りに向かった。
私たちがいるのは、ル・リゾートナインという高級ホテルにあるレストランだ。
先週、橋倉さんの披露宴に行ったときに、ビンゴゲーム大会があり、その景品の一つにあったのが、「高級ホテル ル・リゾートナインの和菓子ビュッフェペアお食事券」だった。
それを見た瞬間、何が何でもそのお食事券を勝ち取らなければならないという使命感に駆られ、ビンゴゲーム大会に参加した。
だってよく考えてみて?
あの樹くんが、目の前でたくさんの和菓子を幸せそうに食べるわけ。そして私はその姿を間近で見ることができるわけ。
そんな素晴らしいことがビンゴの結果次第で起こり得るなんて、参加する以外の選択肢がない。
リーチが三つもあるのに一向にビンゴにならなかったときは焦ったが、何とか景品が残り三つのときにビンゴを勝ち取ることができた。
ビンゴになったときは表情筋の力が抜けきっていて、平静を装うのが大変だった。
無言で次から次へと和菓子をお皿に乗せている樹くんを拝むように見て、席に戻る。
「どれも美味しそうだね」
「うん。食べよっか」
どれも美味しそうであることは事実だが、正直に言うと、私はたくさんの和菓子を食べる樹くんを見たいのだ。なんなら動画に収めたいくらい。
動画にできたら一人で百万回以上再生する自信はある。
とはいえ、そういうわけにはいかないので、眼球と脳に今日という日の記憶を焼き付けるしかない。
「美味しいね」
そして、予想通り樹くんは嬉しそうである。
はーあ。樹くんって何でこんなに可愛いんだろう。というか……何でこんなに可愛いんだろう。
……同じこと二回思っちゃったよ。
この可愛いさを前にすると、私が二十七年間培ってきた語彙力のすべてが消えてしまうのだ。
ところで最近思うんだけど、樹くんって本当に私と同じ霊長類ヒト科なのだろうか。
神の一族テンシ科とかじゃないよね?? 同じ人類だよね? この可愛いさで。
「うん。人気なのは知ってたけど、本当美味しい。期間限定なのがもったいないくらい」
本当に、期間限定じゃなかったから、これからもときどきここに来ようって言えるのに。
「でも良かったの? 悠ちゃん、ドライヤー欲しいって言ってなかった?」
ビンゴ大会の景品の中に、実は欲しいものがもう一つあった。
というか、景品が発表されたとき、はじめはそっちを貰うつもりだった。
私が狙っていたのは音がしないドライヤーだった。何か他にも色々と利点があるらしいが忘れた。
とにかくいいドライヤーだとかで、CMでもよか流れていた。しかしドライヤーにして高いので、買うのは諦めていた。
だからビンゴ大会の景品として発表されたときは、絶対欲しいと思っていたのだが、そのあとに和菓子ビュッフェのお食事券もあることを知り、一瞬で寝返った。
ヘアケアも大事だけど、樹くんと過ごす時間のほうがよっぽど大事だ。
「ドライヤーもいいけど、こっちのほうが二人で一緒に来れるから」
もっと言うと、樹くんの幸せそうな姿を見る方が大事だから。である。ここは言わないけど。
幸せな時間はあっという間に過ぎて行き、退席時間となった。名残惜しいが仕方ない。
見た目からは想像できないほど和菓子を食べた樹くんは、外だというのに珍しく眠そうで、どうして今自分が一眼レフカメラを持っていないのか不思議なくらいだった。
「樹くん、眠い?」
「うん……でもせっかくだし、あっち行こ?」
樹くんの言うあっちとは、ホテルのすぐそばにある広場のことだった。
「そうだね。行こうか」
二人で広場をゆっくりと歩き、中央にある噴水の近くのベンチに座る。
よく晴れていて少し暑いくらいだけど、水の近くにいると涼しくて、とても心地が良い。
おかげで私まだ眠くなってきた。
いや、ダメダメ! 今日は外で眠そうにしてるレアな樹くんを見られるめったにないチャンスなのよ!
こんなときに眠くなってどうする。写真が撮れないのだから、もっとちゃんと目に焼き付けるしかない。
今日の夢に、眠そうな樹くんが出てくるくらいにはこの光景を覚えておかないと。
だから何があっても起きるのよ! 桧原悠!
何とか自分を奮い立たせ、手の甲をつねったり、頬を軽く叩いたりして無理やり目を覚まし、何とかやり過ごした。
その日の夜、一眼レフをネットで検索してみたが、値段が高すぎて諦めることにした。そして悲しいことに夢に樹くんは出て来なかった。
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