第5話

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第5話

とある月曜の朝、七時半ちょうど。朝日の眩しい庭の真ん中で精神を統一する。 静かな世界で風の音だけを聞きながらタイミングを見計らう。ときどきチュンチュンとかいう鳥の鳴き声が聞こえるが気にしてはいけない。 全神経を右手の拳に集中させ、そして。 「はあ!!!」 ガシャガシャガシャッ! ものすごい音とともに、目の前の瓦が割れていく。これがとても爽快なのだ。 「新記録達成?」 割れた瓦を片付けようとしたとき、洗面所で歯磨きをしていたはずの樹くんが、歯ブラシを口に入れたまま庭に続く縁側に立っていた。 というか縁側で歯を磨いているだけの姿が絵になるってどういうことだろう。不思議だ。写真を撮らせてほしい。額縁に入れて飾りたいので。 「うん! 今日は十五枚全部割れた」 「調子いいね」 これが私の月初めの日課。毎月一日の朝に瓦割りをする。先月が十五枚重ねて割れたのが十四枚。最後の一枚はヒビが入っただけだった。 瓦割りをする理由は月初めに気合いを入れ直すためと、全部割れたら良いことがあるかもしれないという験担ぎのためだ。 七月に入って暑さが増してきて気持ちがだれそうになるが、こうやって瓦を割って気合いを入れたから大丈夫。なんてまあ、要するに気持ちの問題なだけだが。 瓦を片付けたあとは手を洗い、あらかじめ作っておいた樹くんのお弁当を包み、お箸やら水筒やらを用意する。 「って、あれ? 樹くんネクタイは?」 歯磨きを終えた樹くんは、先月の頭にデパートでスーツと一緒に買ったシャツを着ているものの、ネクタイをしていない。ついでにジャケットもいつもならキッチンの椅子の背もたれにかかっているのに、今日は一度も見ていない。 「クールビズだよ。暑いからうちの会社は今月からノーネクタイ、ノージャケット」 クールビズ? ああ、そうか。これだけ暑かったらそりゃジャケットなんか着てられないよね。ネクタイだって意外と暑いし。 「じゃあ、そのまま会社に行くの?」 「? そうだよ」 そんな破廉恥な格好で? と言いかけて慌てて口をつぐんだ。 今、目の前にいる樹くんはシャツの第一ボタンを開けているうえ、腕まくりをしている。 おかげで首元が普段より見えているし、めくられたシャツから出ているちょっとばかり筋肉のある白い腕が、普段よりも男らしく見える。 目のやり場に困るし! ってかこんな人が会社にいたら絶対仕事なんかはかどらないよ!? デスクが隣とか隣だったら絶対チラチラ見ちゃうじゃん。私なら後ろでも見るね! 絶対集中できないね! そうは言ってもこの暑い中ジャケットを着ろとは言えないし、会社に着けばエアコンもついているだろうから腕まくりはやめるだろう。 「それじゃあ、行ってくるね」 八時半ちょうど。仕事に行く樹くんを見送るため、私も必ず一緒に玄関まで行く。 「あ、今日の夜ご飯、何がいい?」 玄関で靴を履き終えた樹くんは、少しの間うーんと唸ってから思いついたように言った。 「オムライス」 「オムライスね。わかった」 「行ってきます」 樹くんは玄関の靴棚の上に置いてある鍵の入った籠から、車のキーと家の鍵がついたキーリングを取り、輪っかの部分をくるくると回しながらドアを開けた。 「気をつけて行ってらしゃい」 ドアがガチャンと音を立たあと私はその場に立ち続ける。 樹くんの足音が聞こえなくなり、代わりにガレージから車が出て行く音が聞こえ、さらに車のエンジン音がそれが聞こえなくなったところでリビングに戻った。 戻るなり一旦ソファに倒れこむ。 「クールビズ……朝からとんでもない破壊力だった……」 何度鼻血が出そうになったことか。あの姿を八時間も見ることができる会社の人たちがちょっとうらやましい。 最近は暑さのせいでどれだけ社内が涼しくても帰宅中に少し汗をかくため、樹くんは家に帰って来るなり真っ先にシャツやらジャケットやらを脱いでお風呂に入る。 まあ、樹くんの部屋着姿は絵画みたいなものなんだけど、やっぱりああいう仕事着っていいなあと思う。 「今日はオムライスか。って、やばい。ケチャップあったっけ?」 オムライスが食べたい樹くんって可愛いなあ、なんて考えていたまでは良かったが、肝心のケチャップがあったかどうかわからない。 すぐさま立ち上がってキッチンに行き、冷蔵庫を開けてみたがケチャップはなかった。先週無くなって買いそびれたんだった。 オムライスにケチャップがないなんてことはありえない。よし、買いに行くか。 昼になるとより一層暑くなるだけので、朝のうちにスーパーに行くことにした。
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