四 兄の左腕

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 蓬は障子を通したほの明るさの中で、じっと正座したまま、八夜の左腕を、肘から指先まで、視線を這わせた。八夜は右腕もまくり、左腕と揃えて見せた。 「細さが違うだろう。色も。指の長さも少し」  確かにそうだった。左腕は右腕よりややほっそりとして、青みを帯びた肌には血管が透けて見え、指は細く、すっきりとした肉がついていた。蓬は黙って、左腕の袖を肘より上にめくった。肘の内側に小さなほくろがふたつ並んでいる。このほくろを、蓬はよく覚えていた。蓬にも同じ場所に、同じようなふたつのほくろがある。これを見つけた保育園の先生に、 「お揃いね」  と言われて、恥ずかしいような、嬉しいような、妙な気持ちになったことがあった。そのときの梓は、どういう反応をしていただろう。不思議なことに、よく覚えていない。梓のことだから、きっと顔には出さなかっただろうけど……。 「これだけじゃ分からない」蓬は突っぱねるように言った。「これが梓の腕かどうかなんて、私覚えてない」  八夜は袖を下ろして、首を掻いた。 「そうだろうな。これだけじゃ」  とは言っても、蓬がこの左腕から何を感じ取ったのか、八夜にははっきり分かっているようだった。座卓に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。 「もしお兄さんが死んだっていう確信がまだ持てないなら、いくらでも探すといい」八夜が背中で言った。「殻出でもどこでも。けど、また山に踏み込んでもらっちゃ困るな。助けに行くのが面倒だから」  八夜が襖を開け、閉じようとするきしみが聞こえたとき、蓬は半ば無意識のうちに口を開いた。 「ねえ」  わずかに、八夜が首を蓬の方へと向けた。 「それは本当に、梓の腕なの」  一瞬の間があったが、答えははっきりとしていた。 「ああ」 「なんで」蓬はうつむいたまま、大きな声を出した。「なんでそんなことをしたの。なんで、他人の腕を、そんな……」  畳に落ちるぼんやりとした自分の影が、わずかに震えているのが分かった。 「それは梓の腕なのに」  蓬の影の横に、もうひとつ、蓬のものより大きな影が寄り添った。同時に、蓬の肩に、指と、手のひらの感触が、じわりと伝わってきた。 「この腕は、俺にとってはどうしても必要なものだ」八夜の声がすぐ右側から聞こえてきた。 「あんたにとってお兄さんが必要であるように、俺もこの腕が要るんだ。どうしてかは言えないけれど」  右肩に置かれた、痩せた手の甲は梓のものに違いないのに、その無造作な指の開き方や、どこか硬い触れ方は、確かに他人のものだった。 「梓の、他の部分……」ばらばらに裂かれた兄の身体を想像し、蓬は嫌悪感に口を一瞬閉じた。「……梓のもう片方の手や、足や、頭は……どこにいったの」 「彼は七つに分けられた」  八夜は蓬の肩に手を置いたまま、自分の身体の関節を軽く手で叩いていった。 「両腕、両足、腹、胸、それから首。七つの家に分け与えられて、御絡体の材料になる。この町の山で死んで、拾われた人間は、誰だってそうなる。ずっと昔から、そうだった」  蓬は右肩にそろそろと手を伸ばし、相手の指に触った。体温は感じなかったが、冷たくもなかった。生きているとも、死んでいるともいえず生ぬるい。  指をきつく握りしめ、蓬はうめくように言った。 「梓に会いたい」 「七つに分けられていても?」  八夜が平板な声で言った。  蓬は身じろぎもしなかった。 「化け物にされていても?」  重ねて問う八夜の声には、同情と、冷淡さが同時にあった。  もし蓬が黙ってここを離れれば、梓の身体は蓬の知らない他人の好きにされるのだろう。この男が梓の腕を、自分のものとしたのと同じように。彼の言っていることが本当ならば、化け物にされ、恐らく昨日の腕のない御絡体のように、理性を失ったまま、ずっと山をうろつくことになるのだろう。  それだけは、どうしても許せないことだった。 「梓を取り返す」  その言葉を口にして初めて、蓬は自分のしようとしていることが何か分かった。 「ひとつ残らず」
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