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バスの中も、外と同じような暑さだった。空気がこもっている分、外より居心地が悪いかもしれない。冷房はないらしく、運転手席の近くに、扇風機がひとつ回っているだけだった。
蓬がキャリーケースを窓際の席に置き、通路側に座るのと同時に、さきほど売店にいた中年の男が乗り込んできた。くたびれたポロシャツを着、重たげに通路を歩いて前の方の席に腰を下ろす。その男に、蓬はなんとはなしに違和感を覚えた。席の背もたれにほとんど隠れた男の後ろ姿に視線をやる。このバスに乗り合わせた唯一の客だから、気になるだけなのだろうか。それとも……。
考えていた先から、もう一組客が乗り込んできた。親子連れで、ふたりの子どもは東京の方が良かったとか、友達は海外に行くんだとかしきりにごねている。父親はその兄妹をなだめながら、小さな旅行かばんを通路の隅に置いた。蓬はその様子を、どこか懐かしい気持ちで眺めていた。
兄妹、か。
蓬はシートに背中を預け、男について考えるのをやめた。考えるべきことは他にもある。
バスの出発にはまだ数分あった。蓬は膝に乗せていた、フェイクレザーの小さなショルダーバッグを開け、ポケットから革表紙のノートを取りだした。相当使い込んだものらしく、表紙の端が擦り切れている。
このノートが、蓬に唯一残された持ち主の居場所の手がかりであり、もしかしたら――蓬は考えたくはなかったが――持ち主である双子の兄の遺品になるかもしれないものだった。
いちばん重要なページはノートの後半、持ち主が最後の記述を残した箇所なのだが、蓬は真っ先にそこを読み返す気にはなれなかった。ノートの最初から、ぱらぱらとページをめくる。
それは日記兼備忘録のようなもので、誰に貸すわけでもないだろうに、表紙の裏には「拝島梓」という名前と、日記を買ったであろう日付が記されてあった。几帳面な彼らしく、毎日食べたもの、使ったお金、訪れた喫茶店の場所と感想、読んだ本のデータ――題名と作者はもちろん、出版社や出版年、訳書の場合は原題と初版年、そういったことが、こまごまと記されている。
バスはいつの間にか出発し、雑居ビルやマンションの間を走り始めていた。蓬は乗り物酔いには強いほうだ。そのまま、日記のページをめくり続ける。
毎日途切れずに書かれている日記の日付の横には、必ず一から十までのいずれかの数字が書き込まれていた。
彼との連絡が途絶えたあと、半年ぶりに訪れた彼の部屋でこの日記を見つけたとき、その数字が何を示しているのか、蓬には分からなかった。ほとんど見落としてしまいそうなほど小さく書かれた、一見まったくランダムの数字。だが、日記の内容をよく読み、数字と注意深く照合すると、なんとはなしに蓬にも数字の意味が分かってきた。
おそらく彼は、その日自分がどの程度気分が落ち込んでいるのか、どのくらい自らの感情が侵されているのかを、数字として書き表したのだろう。一を最低、十を最高として。
ページをめくるうちに、蓬の中に苛立ちのようなものが沸き上がってきた。数字は七のときもあれば、三のときもある。数字が高ければ、彼は喫茶店にも行くし、映画も観る。低ければ、その日の記述はほとんどない。ずっと低い数字が続くときもあれば、高い数字になることもある。けれども、あるときを境に、数字が五を超えることはほとんどなくなった。
蓬は表紙を握る手に力を込めた。短くなる一方の記述を追う。今となっては遅いことだが、もしこの段階で自分が彼に連絡を取っていれば。この数ページ先に進む前に、彼の話をちゃんと聞いていれば。
(梓は失踪することはなかったかもしれない)
蓬の知らないところへ行くこともなかった。改めて、蓬の胸に冷たい霧のような不安が広がる。梓のアパートには、この日記や買い溜めた本のほかはほとんど何もなかった。電話をしても出ることはない。実家にも何の連絡もない。梓は誰も知らないところにいる。
蓬は不安を抱えたまま、梓が二十歳になった日のページをめくった。蓬が誕生日祝いの電話をかけたのに、繋がらなかった日からの数字。
一。一。一。一。一。一。一。一。……
日記の記述は、日付と数字のほか、何も記されていなかった。
蓬は最後のページをめくった。左側の新しいページには、日付と、「二」「四」「三」という、低空飛行の数字が記されている。そして右側のページは、数枚に渡って破られている。破られた次のページには、彼らしからぬ震えた、かろうじて読める文字で、短くこう記されていた。
「七く町」
それが「七躯町」だと分かってから、実際にここに来るまでに、蓬は二日とかけなかった。
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