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雑草が割れ目から覗く、ゆるやかな石垣の下で、バスはだしぬけに停まった。運転手がなにごとかぼそぼそと乗客に告げたが、うまく聞き取れない。前のドアが開いたことで、やっと目的地に着いたことが分かった。
蓬はキャリーケースを座席の上から引っ張り出し、前方に座っていた中年の男に続いてバスを降りた。一区間分にしては運賃がやけに高かったが、駅から三十分は走ったのでこんなものだろう。赤錆で塗装のはがれかけたバス停には、確かに「入母屋」とある。
蓬は手で庇を作りながら、乗客を降ろして町のさらに奥へと走り去っていくバスを見つめた。殻出といったか、何もないところだと駅員は言ったが、こういうところの住民はみんな車を持っているだろうし、そこまでバスを走らせていったい誰を乗せるというのだろう。
バスが道を曲がり、姿を消したころには、もう中年の男は蓬からずいぶん離れたところを歩いていた。自動車道の向かい側、水田に挟まれた道をゆっくりと進んでいく、その遠い後ろ姿にも、背中に汗をかいていることがはっきり分かる。
確かもう一組乗客がいたはずだ。
蓬は辺りを見回したが、例の家族連れはどこにもいない。そういえば、バスを降りた気配もなかった。子どもは長いバスの旅に疲れて眠ってしまったのだろうが、その間も、あの夫婦が言葉を交わすのを聞いた覚えはない。
あの家族連れは、殻出に行ったのだ。
汗がひとすじ、蓬のこめかみを伝った。キャリーケースを引きずり、石垣のすぐ下の木陰に入り込む。頭上から、ヒグラシの鳴き声が聞こえてきた。頭上の木に止まってでもいるのだろうか、耳に突き刺さるような大きさの鳴き声だった。
蓬は虫が苦手だったが、幼い梓が蝉を取りに行くのだというと、必ずあとからついていったものだった。
目をこらしてヒグラシの姿を見付けようとしたが、木が密生しており、小さな虫の姿はいくら探しても見えなかった。
石垣の下は木の間を吹く風のおかげでいくぶん涼しいとはいえ、いつまでもこうしている訳にはいかなかった。再び自動車道の向こう側に目をこらすと、すでに男の後ろ姿は緩やかな曲がり角の先に消えており、角には何かの理由で開発を避けられたような、こんもりした小さな林があった。キャリーケースの持ち手を伸ばし、信号のない自動車道を渡る。その狭い道の脇に、ずいぶんと長い間風雨にさらされた、小さな木製の看板があることに気付いた。剥がれかけた赤いペンキの矢印は男の辿った道の先を示しており、その上に乾燥してひび割れた黒い文字で、
「民宿 たでや この先一キロ」
と書かれてあった。
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