一 七躯町へ

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 いかにも寂れた看板だったが、他に泊まるようなあてはない。ペットボトルの茶を一口飲んで、水田の間を歩きはじめる。  稲は刈り取られる時期を控えているようで、生ぬるい風が吹くたびに穂先が物憂げに揺れた。強い日差しが、白い帽子の繊維を掻い潜って、蓬の髪を、さらに骨の中までも焼いてくるようだった。百メートルほど歩くたびに、茶を口に含む。曲がり角に差し掛かるころには、茶は半分ほどに減っていた。  角を曲がると、車がようやくすれ違える程度の幅の道に出た。そこかしこに石垣が連なり、その向こうに瓦屋根の民家が見える。狭い段々畑の奥には、杉林が覆いかぶさるように連なっている。トタンを継ぎ合わせたようなガレージの中には白い軽トラックが停められていたが、人の気配はなかった。  民宿がこの先一キロという看板は、嘘とまではいかないものの距離が不正確なのではないだろうか。この辺りで次の看板があってもよさそうなものだったが、それも見当たらなかった。多少なりとも人気(ひとけ)のありそうなほうの道を選び、赤錆のついた橋を渡る。川の水量は多くはなかったが、底まで透き通り、ときおり飛び交うカゲロウの羽根がちらちらと光った。  橋の先からは道幅が広がり、民家の間に診療時間外の歯科医や、サインポールが止まったままの理容店が目につき始めた。やけに派手派手しいオレンジ色の店舗テントのついた商店の中を覗く。三十代後半くらいの、眠たげな眼をした女性が、レジの奥で煙草を並べていた。  声をかけると、女性はあら、と言い、後ろで束ねた髪に手をやって、もう一度あら、と繰り返した。 「バス停の近くで、民宿の看板を見かけたんですけど」目に入りそうな汗を拭う。「どこにもなくって」  女の曖昧な笑顔はそのままなのに、その視線が探るような、訝しむようなものに変わるのがはっきりと分かった。 「泊まるの?」問いの底に不審を潜めて、「たでやさん」  たでやさん、とつぶやく女性の口調が、やけに言いにくそうだった。何か避けたいものを口にせざるをえないときのような。何かを恐れているような。 「その、たでや……さん、だけなんですか。やっぱり」鞄を肩にかけ直しながら答える。「はい。どのくらい泊まることになるかは分からないけど」  と、脇に止めてあるキャリーケースを指差す。蓬の腰くらいまで高さがあるそれを見て、女性がふいにああ、と笑った。どうしてか蓬には分からないが、女性の持っていた不信感の一部が拭えたことは確からしい。 「途中の看板は、去年の台風でポッキリ折れたの」やはり髪をしきりになでつけながら、女性がレジの脇を通り抜けてきた。「まだ直ってないの。仕方がないね、あそこのおばあさんは腰が悪いし、孫は忙しいみたいで手が回らないから」  仕方がないと言われても、民宿を探す側としてはたまったものではない。 「民宿は向こう」女性は道に一歩出て、蓬が向かおうとしていた先の方向を指さした。「大きな看板が出てるし、前庭には酔芙蓉(すいふよう)の垣があって目立つから、すぐに見付かるよ」 「酔芙蓉?」名前は聞いたことがあるが、どういうものかははっきりとは思い出せなかった。 「知らないの。ここらへんではよく咲いてるけど。大きな背の高い花……八重咲きの花だよ。見たら分かるんじゃないかしら」  白い塀で黒い屋根瓦、という特徴も聞いて、蓬は再び道を歩きだした。
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