二 民宿、青年、いなくなった兄

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二 民宿、青年、いなくなった兄

 商店の女性には民宿まで五分くらいかかると言われたが、そんなにも歩かないうちに、「たでや」と書かれた白い看板が道に張り出しているのが見付かった。車が入れる広い門に、「八夜」という木の表札がかけられている。  中を覗いてみたところ、民宿の敷地は広かったが、西側の障子の隙間からは箪笥や安っぽい扇風機が見えるところからして、棟の半分は持ち主の居住空間らしい。女性が言った通り、門の内側を取り巻くようにして大ぶりな花が植えられている。花の何本かは、門の丈を越して外から見えるくらいだ。強い日差しに照らされ、内側からほんのりと薄紅色に染まっている花弁が眩しいほどだった。  民宿の中に人の気配はない。引き戸から入ってすぐは小さなロビーになっており、革張りのソファに挟まれた丸テーブルには灰皿が乗っていた。右手には下駄箱があり、その上には小さなブザーと、 「御用の際は呼び鈴を押してください 午後九時以降はご遠慮ください」  という注意書きがある。今は五時近くだし、満室ということもないだろう。  蓬はブザーを押して、しばらく待った。ことりとも音がしない。もう一度ブザーを押し、さらにすみません、と奥に声をかける。  靴を脱ぎ、ロビーに上がる。右側にはひものれんがかかっており、奥には狭い廊下が続いている。宿の人は客が来ないものと思って、自分の家に引っ込んでいるのだろうか。奥の方に向かい、もう一度声をかける。  玄関先で、車が停まる音がした。ドアが閉まり、砂利を踏む足音が近づいてくる。  開いたままの引き戸から顔を出した若い男は、少しばかり驚いたような表情をして、それからロビーと、正面の階段と、蓬の顔とを交互に見た。 「お客さんか」男は独り言のように言った。それから改めて蓬に向かい、「ブザーは鳴らした? 誰も来なかったのか」 「鳴らして、待ちました」蓬は少しばかりむっとして言い返した。  そう、と男はつぶやいて、三和土(たたき)に置かれたままの蓬のキャリーケースを引っ張り上げた。 「この民宿のひとですか」 「そう」答えながらも、蓬を見もしない。  のれんの奥に入り、すぐに戻ってきて、宿泊カードとボールペンを蓬に差し出す。 「ご予約は」 「してません」意地悪な気分になり、「満室ですか」 「まさか」  初めて男は蓬に笑みを向けた。年は二十代半ばだろうか、短い髪は灰色がかった茶色に染められているようだったが、室内では地毛にも見えた。目尻の上がった目が猫科の動物を思わせる。 「書いておいて。嘘はつかないこと。その間、荷物を部屋に入れるから」  そういうが早いか、キャリーケースを軽々と持って、階段を上がっていく。長丁場になるだろうと思っていろいろと詰め込んだ、二週間は旅行ができる大きいものだ。この暑いのに長袖なので肉付きは分からなかったが、力はあるらしい。  拝島(はいじま)蓬、という名前から書き込みながら、男の言葉を思い出した。嘘はつかないこと、か。客商売だというのにひねくれた対応だ。  書き終わらないうちにひとの気配が階段でして、蓬は反射的に顔を上げた。  急な階段の真ん中ほどに、女の子がふたり座っていた。その姿に、蓬は確かに見覚えがあった。
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