『取り替え子』とルネ・シャール

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『取り替え子』とルネ・シャール

 大江健三郎の長編小説『取り替え子』第一章「Quarantineの百日(一)」において、ポール・ヴェーヌ『詩におけるルネ・シャール』の翻訳本について触れられていた。ルネ・シャールがサドについて考えている場所に、主人公の古義人(こぎと)(大江健三郎自身がモデル)の妻の千樫(ちかし)が水彩画のためにスケッチする2Bの鉛筆で傍線を引いていたのだ。    ──サドの作品は結晶させない。数多くの彼の著作は理解の道具なのだ(ルネは「レヴォリューション」という言葉は〔革命ではなく〕天文学者たちの意味〔公転〕に解さねばならないことを確認していた。シャールにとって人間は、固定した天体ではない。人間は動き、自分自身と等しいものではないのだ)。サドは人間の天体が、まともな実生活から遠く離れた、歌う無為の太陽たちの回帰戦に傾くことを祝う。彼は人間の非社会化を祝い、母熊に舐められた〔(しつけ)られた〕部分を徐々に捨てることを教える。──  千樫は、《母熊に舐められた〔(しつけ)られた〕部分を徐々に捨てることを教える。》という言い方に刺激されたようだったが、オレはその一つ前の《サドは人間の天体が、まともな実生活から遠く離れた、歌う無為の太陽たちの回帰戦に傾くことを祝う。》という文章に魅力を感じた。《人間の非社会化》とはどのように解釈すればいいのだろうと思いながら……  ──あなたがまだ若くて、おもに翻訳を読んでいた頃、早口で発音不明瞭というところもあったけれど、話の内容は本当に面白かったのね。輝くような、風変りなほど新しい表現があって……  すでに初老を迎えた古義人に千樫はそういった。さらに、翻訳よりも原語で本を読むことが多くなってから、あなたの使う言葉の感じが変わった。新しい深さが言葉に反映している、と思う。けれども、なにか突拍子もないおかしさ、面白さの言葉には出会わなくなった。以前のようにキラキラした言葉はなくなった。そう考えているうちに、あなたの小説を読まなくなってしまったのね……  古義人は、自分の本の売れ行きが下降線を示しはじめたのは四〇代後半からであり、あまり翻訳を読まなくなった時期と一致することを再認識した。 ──キラキラした面白さが薄れたのかも知れない──  風変わりなほど新しい表現があって、キラキラした言葉が必要なのだ! 9bd91457-0aa9-4d00-a597-48cd2bdfd26b
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