永遠のかなたに

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 また原民喜は、対人関係において、(おく)する幼児のようであったと言われるぐらい、極度に無口でおとなしい人だったらしい。唯一の話し相手であった妻貞恵さんが、病のために亡くなった翌年、疎開先の広島の実家で原爆被災を体験し、文学の主題の根本に原爆被災をおかざるえなくなってしまった。  ──原子爆弾の惨劇のなかに生き残った私は、その時から私も、私の文学も、何ものかに激しく(はじ)き出された。この眼で()た生々しい光景こそは死んでも描きとめておきたかった……  前述のとおり、原民喜は最愛の妻を病気で亡くした。民喜38歳、妻貞恵33歳の時だった。彼は心に誓っていた。  ──もし妻と死に別れたら一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために……  そして妻が亡くなって、あと1ヶ月で1年という昭和20年8月6 、疎開していた広島の実家で原爆に遭い、その惨劇を描いた『夏の花』を執筆した。  その後彼の筆からは、硬い岩盤から清冽(せいれつ)な水が穏やかに湧きおこるように、美しい散文が(つむ)ぎだされ、書かねばならないもののすべてをよく見きわめて、少なくてもおおかたを書き終えるまでは、決して死ぬことはなかった。この現実世界でもっとも恐ろしく(むご)たらしいものを描きながら、しかし、それに重ねるように妻への美しく哀切な鎮魂歌を描いたのだ。  そしてすべてを書き終えた45歳の彼は、昭和26年3月13日、大量に酒を飲んだあと、午後11時31分に国鉄の吉祥寺駅ー西荻窪駅間の線路に身を横たえた。  この新潮文庫の『夏の花・心願の国』の解説の末尾に、もちろん編集者兼解説者の名前が記載されていた。オレはその名前を見て、あーオレが原民喜を知ったきっかけこそが彼の強い影響からであったことを納得した。  編集者兼解説者は、大江健三郎だった。  原民喜は、遺書をいくつか残している。後輩の作家で親交が深かった遠藤周作と、当時21歳の祖田祐子宛にも。  梯久美子(かけはしくみこ)著の『「愛の顛末(てんまつ)」に、─原民喜─「死と愛と孤独」の自画像ー』でも触れられているが、彼女はとても美しい女性で奇跡の少女と言われており、最晩年の原民喜の救いだったのかもしれない。  その遺書に、彼の『悲歌』という詩が添えられていたそうだ。  私は歩み去ろう  今こそ消え去つて行きたいのだ  透明のなかに  永遠のかなたに  愛犬シーズーのシーが先になって、垣根付きの舗道を歩いている。東の暗澹(あんたん)たる夜空に、ひとつだけ輝いている星があることに気がついた。もうすぐ七夕だ。おそらくあの星は、ベガ(織姫星)に違いないと思った。夜空には、ベガだけが輝いている。その輝きの派生が、周りの空を不思議な世界に映し換えているようだった。  また原民喜のことを思った。深夜に彼は、大量の酒を飲み冷たい線路に横たわった。夜空を見上げただろうか。星を見つめただろうか。夜空のかなたに永遠の世界をみたのだろうか……  今朝は雨があがったのでシーと散歩をした。シーはとても嬉しそうに元気に歩いてくれた。 74ee6272-f81f-43e4-951d-9a9c17887df1
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