小夜嵐

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 三島由紀夫の祖父は、福島県知事や樺太庁長官を務め、祖母方の血筋を辿っていくと徳川家康に繋がっていたりと、やはりそれ相応の家系のようだ。  しかし祖父の借財のために、三島家は経済的に困窮し、由紀夫は東京大学法学部から大蔵省に入省する。その学生時代にすでに川端康成と出会い親交を深め、堀辰雄や太宰治にも会っている。  大蔵省に入省してから文章力を期待された三島由紀夫は、大蔵大臣の演説原稿を書く仕事を任され、その冒頭文に、淡谷のり子さんや笠置シズ子さんの楽しいアトラクションの前に、 ──私(ごと)きハゲ頭のオヤジがまかり出まして、御挨拶を申上げるのは野暮の骨頂でありますが…… と書いて課長に怒られ赤鉛筆でバッサリと削除されてしまった。後に超一流小説家となった三島由紀夫の原稿を削除した面白いエピソードとして、大蔵省で語り継がれたそうだ。  話しが脱線してしまったが、やがて三島由紀夫は大蔵省を辞め、本格的に小説家となった。やはり戦争体験によって深く刻みこまれた至純(しじゅん)の心が、オレには三島由紀夫のその後の人生と作品に、大地に()み込む雨水のように影響を与えたような気がしてならない。  なぜなら、三島由紀夫が私淑(ししゅく)していた蓮田善明が招集令状を受けた際、 ──日本のあとのことをおまえに託した、と言い(のこ)し、日本の行く末と美的天皇主義(尊皇)を、蓮田善明から託された形となったらしいから。  しかもその蓮田善明は、マレー半島で陸軍中尉として終戦を迎えるが、天皇を愚弄(ぐろう)した連隊長大佐を軍用拳銃で射殺し、自らもこめかみに拳銃を当てて自決してしまった。やはりこうし事実こそが、人知れず深く三島由紀夫に影響を与え、あのような最期へと進んで行ったひとつの要因かもしれない。  いずれにしても、戦後日本文学において渾然(こんぜん)と輝く才能を誇った三島由紀夫を、ひとことで述べることはできないだろう。  大学2年を迎えた春、母と京都へ旅行に行った。そのときオレは、すでに読んでいた『金閣寺』に思いを馳せながら、春のうららかな陽の下の金閣寺を眺めた。それは目の前の池に映った金閣寺とともに、深遠な美しさだった……  今晩も、愛犬シーズーのシーは枕元でお尻をオレに向けて熟睡している。シーのこころも至純の美しさだ。 0eaf366e-4643-4a1c-9c8b-3c8343bf0e79
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