『晩年様式集』その3 「サンチョ・パンサの灰毛驢馬」

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 退院して来た日以来、アカリの方から何かを言い出すことはなかったため、医師のコーチ通り長女の真木が、こまかな一問一答の形式で自発的な言葉をうながすことを始めた。日中はもとより暗くなっても、アカリのベット脇に持ち込んだ金属パイプ椅子に座り続けて…… ──今度のことで彼女にはこれまでにない危機感が生じている様子だった──  ──このままでゆけば、アカリさんは「死んだようにして生きている」ということでしょう? パパが若い時そういうふうに(ふさ)ぎ込んでしまう時があって、あまりそういうことをいわないママが突然抗議して、パパを反省させたそうですけど……その抗議は、こんな暮しじゃ私はつまらない、というのだったんでしょう? 私も、今つまらない。  そして真木は、独り言のように、アカリが聞きとっているかどうかさだかじゃない呟きを続けているうち、ずっと黙っていたアカリが、案外はっきりした声音で、 ──昔は面白かった、というのが聞こえた。  それはたまたま真木がギー・ジュニアについてアカリに話しをしている時だったため、真木は自分の問い掛けをまとめ直した。  ──アカリさんは何をして面白かったの……誰か、面白いことをいったり・したりする人が来たの? それは誰?  FMのクラッシック音楽をごく小さな音量で聴いていたアカリが応えた。  ──……ギー・ジュニアが居ましたからね、面白かったですよ。  ──大江健三郎の長編小説『懐かしい年への手紙』に登場する、故郷の森に住んで、都会の「僕」の師匠でありつづける友ギー兄さん。かれは事故のようにおそう生の悲惨を引き受けて、荒あらしい死をとげるが、ギー・ジュニアはかれの長男。今はアメリカに住んでいる──  アカリが安らかな寝息をたて始めるのを確かめ、階下へ降りて行った真木は、食卓にいた母親の千樫へその話しをした。すると千樫はギー・ジュニアが自宅に滞在していた頃を思い出していった。  ──不思議な気がしたのは、ギー・ジュニアがアメリカへ帰った後で、アカリさんが何かをなくしたようだったことね。もうベットに入ってからも、起きて来て食堂を探していた。何をなくしたの? といってもそのの名をいう人じゃないから、わからない。自分でもこれこれだといえないなにかを探しているのね。ただ私もそれがパパのものだということは、気が付いていた。ギー・ジュニアが、アカリさんの大事に思っていたものを黙って持って行ったのじゃないか?
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