『晩年様式集』その3 「サンチョ・パンサの灰毛驢馬」

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 真木がメールで、アメリカのギー・ジュニアに尋ねると反応があった。  ──あれは、長江さんの仕事部屋の、机の前の棚に掛けてあった品で、木枠におさめられていた。当時、長江さんが書いていた長編に関わるもので、『ドン・キホーテ』のなにかだということだった……  ギー・ジュニアの返答のメールから、それが『ドン・キホーテ』の挿画がおさめられた額縁であることがわかった。しかも長江がギー・ジュニアに見せている脇から、アカリが、これは僕と友達の絵です、といって長江を驚かせたらしい。  真木がアカリへ、これから住まう四国の森のの住所までその絵を、ギー・ジュニアが送ってくれることを話すと、  ──ホーッ、ホーッ! と声をあげて喜んだ。  そしてギー・ジュニアは真木へ、アカリさんと真木が四国へ早く移れるよう長江の自宅の成城へお願いに行くと伝えた。  その絵がどういうものであるか、長江には思い当たっていた。半型こそ違え、オリジナルはひとしくする(ギュスターヴ・ドレの挿画)、精巧な印刷の岩波文庫版『ドン・キホーテ』新訳を見付けていた。53章の挿画の一枚。その絵を説明するサンチョ・パンサの台詞。「さあ、もっとこっちに身を寄せな、おいらの大好きな仲間、苦労や難儀をともにした友だちよ。」  文庫版の挿画は、ホーガス版の2分の1に縮小されているが鮮明で、画面右半分を黒ぐろとした驢馬(ろば)の頭が占め、それが見開いている大きい左目には、むしろ人間的な感情があらわれている。驢馬の鼻面を抱きしめて涙を流している男は、この本に沢山ある挿画のサンチョ・パンサの、どれより生真面目に、農民の苦労や悲哀を表現している。長江はこのようなサンチョ・パンサの肖像にこそ、自分の書いていた小説の底に流れる感情に結ぶものを見て、それを額縁に入れ仕事部屋の壁に吊り下げていたのだった。  長江は真木にそうしたことを話した。あの時、アカリがこの絵にを見ているとは想像しなかった。いまもそう見ることはできない。この驢馬と泣いている男の、どちらがアカリにとって彼自身であり、どちらがかれの友だちであるかと迷ってしまう……
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