『晩年様式集』その5 「死んだ者らの影が色濃くなる」

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『晩年様式集』その5 「死んだ者らの影が色濃くなる」

 大江健三郎の最後の長編小説『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』の「死んだ者らの影が色濃くなる」という章について記していく。  長江(大江健三郎がモデル)は70代となり、幾つかの親族を含め親かった者たちの避けられない死に接してきた。  すでに塙吾良(はなわごろう)(映画監督伊丹十三がモデル。伊丹十三は大江健三郎の妻の兄)の死から15年が経過していた。長江が有楽町一丁目の日本外国特派員協会の記者会見終了後、大学教師のイタリア人の青年から強引な質問を受けた際、一人の女性が面倒を片付けてくれた。大柄の花模様の布地のワンピースをゆったり着ている彼女こそが、晩年の塙と恋愛関係のあったシマ浦だった。ベルリンから来日したシマ浦の目的は、塙監督の映画の国際的な評価の本をまとめるためだった。 ──長江の長編小説『取り替え子(チエンジリング)』では、ベルリン滞在中の塙とシマ浦の親密な様子が描かれていた。性的なこともアケスケに。──  長江は、ベルリンから帰国した塙から頼まれていたことがあった。皮膚のある部分の微妙な動きの描写ではない、それそのものが、実体である言葉にすることを。 ──彼女(シマ浦)の肉体のうちに起った独特な動きが静まって、その余波があるだけだが、娘のわずかなつぶやきが、この画面に表現されているものの原型を、おれが眠っている彼女の身体の動きとして目にした、おれがこの歳月、娘との関係のなかで果しえなかったものの達成を見た……その全体の表現となる。──  しかしながら、塙がその映画の話しをしにやって来ることが続くうちに、長江が一枚の原稿用紙を塙に示した。塙はそれを一瞬だけ見ると(それは白紙に過ぎないほどのものだった)、静かに四つ折りして、長江が添えておいた封筒に入れると、上着のポケット入れ、 ──こういうことだね、と穏やかにいって帰って行った。お洒落な塙が上着のポケットに何かを初めて入れた見た気がした……  塙が死んだ後、長江はそれを塙に渡しながら、自分のやったことをナカッタコトにはしないと自分にはっきりさせるために、自分が失敗例を『取り替え子(チエンジリング)』に書き付けた。もし死んだ人の魂があれば、そのプランを却下したはずだと……  オレは、この長編小説を読みすすめながら密かに期待していることがある。知的障害者でもある長男のアカリが、ついにはアグイーを呼びだし出会うことを。なぜならそれが、必ずやこの世界の救済につながるはずだから……  今朝は雨が降っている。愛犬シーズーのシーとの散歩は中止せざるを得ない。オレはまだ隣で寝息を立てているシーの頭をそっと撫でた。  ──シー、咲き始めた桜が雨に濡れているよ! 933b38ef-5899-4a2a-bad4-f81c1abd59e4
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