『晩年様式集』その8 「魂の集まりに自殺者は加われるか?」その1

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『晩年様式集』その8 「魂の集まりに自殺者は加われるか?」その1

 あらためて大江健三郎の最後の長編小説『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』の各章について、あらすじのようなものは紹介せず、印象的な場面や言葉からオレが感じたものを記していく。  今回は「魂たちの集まりに自殺者は加われるか?」という章について。  この長編小説の終盤に ──FMで初めて聴くものが流れて来ることはマレなのであって── という文章があり、あえてカタカナで記されたマレという言葉に強い印象を受けた。  今の日本の若者が本を読むことはマレである。今の若者が選挙に行くことはマレである。今の若者が政治を語るのはマレである。今の若者がガザ反戦と叫ぶのはマレである。日本において、とくに若者においてマレとなってしまったことは多い。しかしながら日本の親父らも似たようなものだ。いまや戦後を思い起こす日本人はマレであり、まして大江健三郎を読む日本人はきわめてマレである。   《研究書というのは、ヘレン・ガードナーの本だね。そこにエリオットのノートの引用があった(古義人はうなずいた)。死んだ人間と、ほかの存在との間に意志の伝達が行われることについて……そのひとつの集まり(コンミユニオン)が例にあげてある。地上の教会の代表と、天上の聖者と、煉獄にいる魂たちの集まり(コンミユニオン)。そこでみんなが発する声はひとつに溶けあって、聖霊(スピリツト)へのinvocationとなる。そうエリオットが書いている。という。  おれはね、そのinvocationという単語に、チクリと刺された。日本語にするなら、それはコギー、きみが森のなかの新制中学で、できたばかりの教育基本法から覚えたという言葉そのものじゃないか!》  死んだ人間と、ほかの存在との間に意志の伝達が行われることについて…… そのひとつの集まり(コンミユニオン)。    聖霊(スピリツト)へのinvocation!  こんなこというヤツもマレである。 48876ccd-2f57-41d9-ab7f-21150daf5b13
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