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『ヒロシマ・ノート』プロローグ 広島へ…… その3
『ヒロシマ・ノート』「プロローグ 広島へ……」について続けて記していく。
おなじ年の春、大江は沖縄へ旅行した。沖縄の人々はみな穏和な微笑をたたえて、われわれ本土からの旅行者をむかえたが、唯ひとり、穏和な表情の底から不信と拒否の感情のこみあげてくることを禁じえないでいる、そのような婦人に大江は出会った。そして彼女の態度こそはもっとも正当なものだった。
大江は戦後20年間、沖縄のすべての原爆被災者がまったく放置されてきたことをあらためて認識した。かれらは広島や長崎で被爆したあと沖縄の故郷にもどった。それはすなわち、傷ついた自分自身を原爆症治療についてまったく白紙の状態の離島へ追放することだった。沖縄本島で、あるいは石垣島や宮古島で、いまその症状を検討すれば、あまりにもそれのあきらかな原爆症の死者があらわれつづけた。
たとえば、沖縄相撲では八重山群島で横綱をはるほど壮健だったひとりの青年が長崎の軍需工場で被爆して石垣島に帰った。1956年、かれは突然、半身不随となった。自分で放射能障害ではないかと疑い医師に相談したが、当然のことながら沖縄の医師は原爆症についてまったくなにも知らず、かれはそのまま放置されるほかなかった。やがてかれは座ったまま動けなくなり、躰はすさまじく腫れあがり、そして62年、かつての沖縄相撲の横綱は、むなしくバケツに半分もの血を吐いて死亡した。それでもなお、かれが原爆症で横死したことを確認できる医師は沖縄にいなかった。
沖縄原水協がつくったリストにのっている135人の被爆者たちのほとんどが、おおかれ少なかれ躰の異常を感じているが、かれらの不安の訴えはすべて、沖縄の医師たちによって疲労だとかノイローゼだとかいってしりぞけられるほかなかった。本土からの原爆病院の専門医が沖縄をおとずれることなく、沖縄の被爆者たちは20年間放置されてきた。この沖縄の被爆者たちが、われわれに対して微笑をうしない、不信と拒否の表情を示すことほどにもごく素直な心理反応はないであろうと大江は語る。
3月26日、政府は沖縄に住んでいる広島、長崎の原爆被爆者に対する医学調査団を4月中に派遣することを発表した。調査のあと、入院の必要をみとめられたものについては、原爆医療審議会にはかって広島、長崎の原爆病院に入院させるという。
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