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浮気・前編 【榊×唯人】
扉の前まで来てしまえば途端に嫌な予感が増した。
ドクンドクンと体の内側で音が鳴り、頭の中は厭に静かである。
『ああ、当たりだ』
唯人の脳内で浮かんだ言葉は字面だけ見てみれば随分と縁起が良さそうだがそうでは無い事を己は肌で感じている。
彼に呼ばれた訳では無い。
勝手に来てしまったのだ。
『悪い。残業になった。今日の埋め合わせは今度にするから』
そう言って申し訳なさそうに口にする彼を『ああ、無理するなよ』と少し寂しかったが励ました。
予定のなくなったその足で馴染みの料理屋に行き、酒を飲んで飯を食べる。
ほろ酔い気分で思いついたのは残業だといった己の彼氏に土産の一つでも持っていこうというものだった。
浮かれた気分で思ったのだ。
しかし其れが仇となり現在の状況だ。
扉を前に胃の中の物が逆流するように込み上がる気持ち悪さを飲み込んで落ち着かせた。
渡されていた合鍵が鍵穴にカチャカチャと当たり上手く入らない。
「っ...」
よく見れば己の手が震えていた。
入る筈もない。
反対の手で押さえるように手首を掴む。
スッと入り、カチャリとシリンダーが廻った。
まるで泥棒のように音を出さず、ゆっくりと扉を開く。
視線に入ってきたのはこの部屋にある筈の無い、女物のパンプスに口元を押さえた。
動いた空気に女の香水の匂いが混じっている気がして胃の中の物を戻しそうになる。
「っ....」
眉間にシワが寄ったのは無意識だ。
頭を占領していたアルコールは未だ抜けていないようでぐらりぐらりと三半規管を麻痺させている。
一歩一歩進む程に生々しい嬌声が聞こえ、内側から込み上がる吐き気を感じた。
行われている行為の想像に体が拒否反応を起こしている。
しかし既に歩みを止めることもできず寝室の扉の前までやってくれば甲高い嬌声と熱を持った低い声が漏れており指先をドアノブに伸ばした。
『開けるのか? 』
吐き気を我慢しながらここまで来たと言うのにこの土壇場で迷った。
『ここで..今..アイツと女がヤッてるのを見て』
『俺は何を言う? 』
『残業って嘘をつかれたこと? 浮気されたこと? あれ?それとも俺が浮気? ..いや、セフレ? なんだ? 俺はアイツの何だろう...』
正式な恋人関係であり、合鍵も貰っている仲だと言うのに既にキャパシティを超えた頭では正常な判断が出来ず体も脳も立ち竦む。
滲んだ汗がタラリと流れた。
ドアノブに触れる指先が震える。
それでもこのままじっとするわけにもいかず、ドアノブを握ると回転させながら扉を引いた。
「あああんっ...激しっ..やあっ 」
「ははっ...オラっ...もっと善がれっ ...」
扉越しだった女と男の声が直で聞こえ、はしたない水音と肉同士のぶつかり合う下品な音が鳴り響く。
目の前で繰り返される律動が否応なしに目に入る。
裸の女を上に乗せ、その腰をしっかりと掴んだまま下から突き上げる男の姿。
その姿に絶望が己の全てを覆ったのを感じた。
「あ....」
気づけばポロポロと水滴が止めどなく瞳から溢れ落ちる。
二人の世界にどっぷり浸かり快楽に耽る男はやはり気づかないままだ。
恋人が知らない女と弄りあうのを見つめる中、逃げ出したくとも脳と身体の連携が取れず足が動かない。
地面に縫い付けられた足を動かせないまま目に入ってくる情報が前に頭をぐるぐると回る。
『なんで? 何で浮気なんかしてんだ? もしかして俺? 俺が何かしたのかな...それとももう飽きた? ...やっぱり女の人が良かった? ..』
生まれた疑問は瞬く間に原因究明へと移り変わり脳内を激しく駆け巡る。
そして、やがて苛つきへと変化した。
「クソっ!だったら俺だって浮気してっ...」
「はい。アウトー」
抑揚の無い冷たい声と同時に視界を真っ黒に塗りつぶされた。
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