慕   情

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「一杯だけ、な?」 正に誘われて 駅裏の立呑屋へ向きを 二人が変えた時だった。 眼の前を歩いていた老婆が グラリと身体をくねらせた。 「草履の鼻緒が切れたんだ」 正が、老婆の足許を指した。 「大丈夫ですか」 春紀が声をかけると 「あ、ありがとうございます。  大丈夫です」 そうは言うものの、 草履はプツリと鼻緒を切らせて 歩けそうにもない。 「縁台を借りるよ」 春紀は立呑屋の店主に言って 縁台に老婆を座らせた。 「そうだ!現場で使った紐が」 「お誂え向きだ」 正から紐を受け取ると 春紀は代用に使い始めた。 その間に正はラムネサイダーを 持ってきて 「暑かったでしょ?」 老婆に手渡した。 「重ね重ねありがとうございます」 上品そうな老婆の語調は 明らかに東京のものではなかった。
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