2.魔法使いの家

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 誰もいないダイニングキッチンで、私は頭を抱える。そしてこんな時に限って、急速にお腹が減ってきた。そうだ、食べ物はどうしよう。しばらく缶詰め状態にされることを想定したら、食料調達することだって真剣に考えなくてはならない。  私は電源の入っていない冷蔵庫に手をかけた。奇妙なことに、埃一つついていないし、ピカピカに磨かれている。不審に思いながら扉を開けて驚いた。涼やかな庫内に、数種類の夏野菜がひっそりと置かれていたのだ。私はしばらく呆然としながらそれらを見守っていた。冷蔵庫が開けっ放しの警報音を鳴らし出すまでそうしていた。  我に返り、今度は隣にある、くすんだ緑色の扉を開けてみた。奥行はそれほどないが、大人が両手をいっぱいに広げたほどの食料庫になっており、一人で過ごすには十分な量の食材が並んでいた。確かにここは魔法使いの家だと、私は納得した。合点がいったと同時に、ジャージャーという水音が聞こえ始めた。私が開け放したあちこちの蛇口から、勢いよく水が流れ出したのである。昼間でも薄暗かった家のなかには順番に照明が灯り、まるでずいぶん前から人が住んでいたかのような、あたたかい雰囲気が漂い出した。  動転して忘れていたが、純はここに、母の魂が残っていると語っていたのではなかったか――。  私は後生大事に握り締めていたみかんジュースの残りを飲み干し、喉を潤した。膝が笑っているかのように恐怖で震えている。声を絞り出すようにして、どこへいるともわからない母に向かって話しかけた。 「お母さん? 私、万千だよ。こんなに大きくなったよ」  十歳で生き別れて十五年。亡くなった時に対面しているので、正確には三年ぶりである。私は言葉のチョイスを間違えてしまった。水の音が騒音レベルにまで達したため、とりあえず蛇口を全部閉めに行ってから、またダイニングキッチンまで戻った。その間に恐怖心はだいぶ収まった。私は立ち位置に迷いながら、改めて声をかけた。 「家に入れなくなって、みんなが困ってるの。どうしてこんなことになったの? どうして私だけ家のなかに入れてくれたの?」  無音、ひたすら無音。たとえば生身の人間が住み続けている家ならば、色んな音が聞こえてくるはずだ。枠組みした木のきしみや野鳥の鳴き声、もっと耳をすませば、庭を這い回る小虫の足音さえ聞こえるかもしれない。ここにはそうした確かな生き物の気配が一つもない。所詮は作り物なのだと感づいた時、私はいったいいつまで正気を保っていられるだろうと、足元から血の気が引いていくかのような恐れを抱いた。私はまだ死にたくない、生きていたいのだ。
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