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夢と言う物は不思議に満ちている。夢の世界で死ぬ事になれば、脳が勝手に死んだと反応し、自らの機能を果たさなくなることがある。そうなってしまった時、現実で死ぬことになるらしい。今、この男はそれに似たことに陥っていた。
凄まじい風の音で男は目を覚ました。だが、目の前に現れたのは部屋のベッドではなく、幾夜に続く暗闇だった。故に彼は起きている、と言う自覚がなかった。知らぬ間に彼は再び目を閉じていた。男は二度寝などしたくはなかった。だが、明らかに自分の前にある景色は日常の光景とは言い難い物だった。其処からは漠然とした恐怖が沸き上がるように感じた。次目を開ければ、元の日常に戻るはずだ。そうした願いから、彼は目を閉じたのだった。だが、なにかの手を引く感覚が彼の手首に微かに、それでいて瞭然と残っていた。
「人の腕だ。間違いない。」
その手にすがろうと目を開こうとするが、何故か彼は出来なかった。声がするのだ。
「目を開くな。」
そうはっきりと聞こえたのだ。聞こえる?いや、聴こえると言うほうが、正しいのかもしれない。ともかく彼はその声に従うことにした。元々彼は忠告に従順であった。裏を返せば忠告なしでは生きられぬ男であった。つまらないが、社会の量産品である。棄てるほど社会も贅沢ではない。布の末路、この男も雑巾のように社会に絞り取られる運命であろう。だが、彼自身は雑巾で損したことはなかった、そう感じている様だった。
そうしている内に彼は恐ろしいことに気がついた。風が如実に語っている。彼は落ちている。幽幽とした景色のもとに。四方を風が駆けめぐる。
声をだそうにもすぐさま音がかきけされる。相反し、声は凄まじい音量で響くのだった。だが、落ちている感覚に不思議と恐怖は増大しなかった。かといって一抹の希望が芽生えたわけでもなかった。だが、此処に荒涼と広がる靉靆たる景色の前に我を取り戻したに過ぎない。
(何故俺は此処にいる?)
男は自らに問うた。答えは間髪を入れずに返ってきた。夢だ。頭の中の英国議会に敢然と叫んだ。すぐさま議会はNOを男に突きだした。何故なら風は如実に身体の周りを吹きすさんでいたからだ。全身を風の上に乗った震えが走っている。だが、それでも男はこの光景は夢であると思い込んだ。身体は音をたてながら速度を速めていた。男は縮こまり震える腕を広げた。その姿はムササビのような感じだろうなと男は思っていた。だが実際は蝙蝠の様にだらしなく腕を広げたに過ぎなかった。そうしているうちに身体は確信の記憶を取り戻した。記憶は断片的であったが、真実の地図には容易にたどり着ける。男は思い出した。今が何時かわからぬが、残務に尻を叩かれながら終電に乗り遅れ、オフィスに近い公園のベンチに茄子の様に座りこんだまま眠ったのだ。今が丑三つ時かあるいは日の出時ならおおよそ3時間ほど前の事であった。
「そうか、落ちる夢か、、」
男は静かに笑った。子供の頃によくあった。病院か学校かよくわからないがほの暗い廊下の先にある階段を踏み外し、落ちていく夢だ。そう思うと不思議と快感を覚えた。今では少し前にあった声をはねのける気持ちにさえなった。だが、目は閉じていよう、と思った。声に従ったのではなく、自己の意思であった。まるで知己に会った気分だ。このままでいよう。起きたくない。こんなこと滅多にないぞ。夢よ覚めるなよ。男は蝙蝠の腕を限界まで広げると雄叫びをあげた。今度は驚くほど透き通った声が男を出迎えた。男は鳶となり鷹となった。
「あっ、」
その時小さな声が響いた。少し前に彼に指図した声であった。とたんに眩しいほどの光が男を包みこんだ。もはや目は開けているのか閉じているのかわからなかったが、目の前には雲がみえた。目を疑ったが、夢ならと目をはなから信じなかった。雲は鮮やかに通り過ぎた。下に広がるのは街街であった。どれも見覚えのあるものばかりで、笑顔さえ溢れでた。その笑顔が脳を呼び覚ましたのだろうか。身体は再び記憶を思い出した。ベンチに座り込んだ時だった。親切にも一人の若い女性が、隣に座って、男に寄りそって、彼の身の上話を熱心に聞いてくれたのだ。なぜ彼女が其処に居たのかは知らない。ともかく彼女の笑顔の前では自分の悩みがいかにだらしないものであったかと思えた。それだから、普段乗らないタクシーなんぞを使って家に帰った。
「嗚呼、そうだった。」
そこから激しい孤独感と社会の雑巾となった自分の姿が惨めに思えた。だが、郷里に帰ることも、気晴らしに昔の様に遊び歩く事も出来ない。何故なら自分の前には千里を越えるノルマがある。雑巾になることにしたのは他ならぬ自分である。男はビルの屋上に居た。そして、、、、
脳は苦しみから逃れようとして自分に嘘をつく。その嘘は時として図り知れぬダメージを与える。今までの快感が嘘の様に消え去った。だが後悔はなかった。こうなる道を選んだのは自分だからだ。ふと気になるのは、今目を開けたら、そこにはどんな世界が広がっているのだろうか、という事であった。
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